「世界を揺さぶったスパイス(6)」(2024年04月24日)

インド人がコショウを持って来たとき、ヒンドゥの文化も伝来した。コショウ湾沿岸部一
帯を支配するデワワルマン大王が西暦130年に出現してサラカナガラという名の王国を
スンダ海峡の支配者にした。デワワルマンはインド人だったそうだ。

考古学上でジャワ島最古の王国は西ジャワに西暦4世紀ごろあったタルマナガラだとされ
ているものの、それより小規模な王国がその前からあちこちに存在していた可能性は小さ
くないとわたしは考えている。集合記憶を実在のものとして証明できる物品が何も得られ
ていなくとも、そのことだけを根拠にしてその話を神話・伝説のたぐいだと決めつけるの
は人間の視野を狭める結果をもたらすだけではないだろうか。


ラダ湾にもたらされたコショウはすぐに栽培が始められたことだろう。ここで、伝来とい
う言葉が持っている意味をわれわれは広い視野で眺めなければなるまい。ある文明文化か
らまだそれを知らない未発達な種族や国に新しいものがもたらされるプロセスが伝来とい
うものであるとするなら、何のためにそれが行われたのかということ次第で高文明者と低
文明者の間で新しいものの受け渡しが起こる段階が異なって来るように思われるのだ。

ラダ湾にやってきたインド人集団が西ジャワの原住民にコショウを渡してこれを栽培しろ
と勧めたのか、それとも移住してきたインド人集団が定住してからほどなくコショウの栽
培を開始し、それを見た西ジャワの原住民が興味を抱いて自分たちもそれを見倣いたいと
申し出たのか、といった段階的な違いがあり得るように思われる。とは言うものの、実際
の受け渡しがどのような経過で行われたのかということとは無関係に、インド人移住者集
団のラダ湾への来航がインドネシアへのコショウ伝来の故実とされることには違いがない。
すると学生は間違ったイメージでその故事を脚色するかもしれない。

インドネシアへのコショウの伝来はどうやら、後者のケースだったと考えられている。つ
まりインド人は移住先での自分たちの暮らしを楽にすることを目的にして、西ジャワでコ
ショウを栽培するために持参してきたという論が有力になっているのだ。そのころ既に東
南アジアでコショウが高い経済価値を持っていたことがその背景になっているのは間違い
あるまい。インドネシアへのコショウ伝来が、インド人がジャワ島で普及させるためにジ
ャワ人に紹介したというような甘い話でなかったという認識をわれわれは持つべきだろう。


1800年代の記録には、ラダ湾周辺の180の原住民部落でコショウが栽培されていた
ことが書かれている。カラン山・プロサリ山・アスパン山を取り巻く180の部落でコシ
ョウ生産が顕著な産業になっていた。部落名ばかりか、コショウ生産農家や仲買人の名前
までもがそこに記されている。

コショウ栽培がラダ湾周辺からさらに少し離れたMenes、Mandalawangi、Ciomasなどへと
拡大するのは時間の問題だった。マンダラワギ郡パンダッ村で古代のヒンドゥ僧が使った
と見られる鐘が出土しており、またこの村のプロサリ山麓丘陵部には樹齢百年を超えるよ
うな古いコショウの木が今現在もその太い蔓幹をあらわに見せている。

パンダッ村民のひとりソマッさん60歳は丘陵地に今も残っているコショウの古木をコン
パス紙記者に示した。その蔓幹はダダップ樹の幹に貼りついて樹の上方へと伸びており、
蔓の外周は6センチを超えている。「コショウがいつこの地区に植えられたのかを知って
いるひとはいません。確かなことは、古い昔からコショウがこの森林一帯に生えていたと
いうことだけです。」そうソマッは語った。

そのオランダ時代の記録に記された部落名が実際にどの場所にあったのかについて、国立
考古学研究センターは1940年代に作られた地図に照らし合わせて把握している。古文
書に記された地名は古地図を頼りにしなければ、正確な位置を把握するのに間違いが起こ
る可能性があるためだ。[ 続く ]