「居留地制度と通行証制度(2)」(2024年04月24日)

オランダ人がヌサンタラにやってきたころ、オランダ人と華人の間にたいした軋轢は起こ
らなかったように見える。その反対で、JPクーンがバンテン商館の首座に着いていたこ
ろ、かれは勤労に対する華人の能力と意欲を目の当たりにして驚嘆し、バンテンの華人カ
ピタンだったSouw Beng Kong(蘇鳴崗)と親しく交際するようになった。そしてバンテンの
属領だったジャヤカルタを軍事征服してVOCのコロニー作りを開始したとき、バンテン
の華人をバタヴィア都市建設のパートナーとして招いたのである。

ソウ・ベンコンはバンテンから170の華人家庭を引き連れてバタヴィアに移住し、バタ
ヴィアの街の建設に大いに貢献した。かれは1619年から1636年までバタヴィアの
初代カピタンチナとしてバタヴィアの華人社会を統率した。


三代目のカピタンチナに就任したPhoa Beng Gan(潘明岩甲)は先のふたりのカピタンほど
大金持ちでなかったため、時の第10代総督コルネリス・ファン デル レインがプア・ベ
ンガンの経済生活を向上させようとして華人社会に人頭税を課すよう命じた。16歳以上
の華人は収入と関係なくVOCに人頭税を納めなければならなくなった。納税はカピタン
チナを通して行うよう命じられた。その税金の一部がプアの懐に入ったのである。多くの
華人がこの新税の創設を憎み、プアの謀略と考えてプアを恨んだ。

プアは土木技術の才能を持っており、バタヴィア城市周辺の湿地帯がマラリア蚊の繁殖池
になっている状況を改善するために湿地帯を干上がらせるプロジェクトを企画した。VO
Cに提案して賛同を得たプアは湿地帯を干上がらせるためにバタヴィア城市内を貫通して
いるカリブサールに南のレイスウェイク地区から一直線でつながってくる運河を1648
年に設けた。現在のガジャマダ通りとハヤムルッ通りにはさまれた運河だ。作られた当初
はBingamvaartと呼ばれていたが、1661年にMolenvlietに改名された。ビンガムファ
ールはベンガン運河という意味で、モーレンフリートは水車運河の意味だ。この運河を通
ってカリブサールから海に流れ込む力強い水流を利用して運河の両岸にたくさんの水車小
屋が立ち並んだのがモーレンフリートという名の由来だ。プアは1645年から1653
年までバタヴィアのカピタンチナを務めた。


そのように、バタヴィア初期の百年間はオランダ人が華人を相棒として遇した時期だった。
華人もバタヴィア城市内に住んでオランダ人への協力姿勢を示した。最初は華人もジャワ
人や他のプリブミ種族も、自由人であるかぎり城市内に住むことを許され、主にカリブサ
ール西岸地区に住んだようだ。バタヴィア城市内はカリブサールをはさんで西がダウンタ
ウン、東がアップタウンになっていたように思われる。

東の北端にはカスティルがあり、カスティル内に総督が居住しまたVOCの中枢機能がそ
こに集まっていた。だからカスティル南の住宅地に会社幹部や社員たちが住むのは当たり
前のことだろうとわたしは思う。

東岸地区の南には市庁舎が建てられ、カスティルと市庁舎前広場を結んで儀典道路が作ら
れた。オランダ人のための教会も東岸地区のカリブサール沿いに建てられている。一方、
バタヴィア城市内に設けられた造船所は西岸地区をその場所にした。労働者が行きやすく、
そしてまた上流住宅地区を騒がせない配慮ではあるまいか。そのような配置が東岸地区と
西岸地区のステータスの違いを示しているようにわたしには感じられるのである。[ 続く ]