「居留地制度と通行証制度(3)」(2024年04月25日)

1656年にはジャワ人とバンテン人のバタヴィア城市内の定住が禁止された。しかし華
人の居住は従来通り続けられている。

1673年のVOCの記録によれば、バタヴィア人口は総数27,086人と報告されている。
その内訳は次の通り。
オランダ人と欧亜混血者 2,740人
華人 2,747人
ジャワ人・モール人 1,339人
バリ人 981人
ムラユ人 611人
解放奴隷 5,362人
奴隷 13,278人

奴隷とは人種種族を問わない奴隷身分の人間を指し、そこで多数を占めていたのはバリ人
やバンダ・マルクのひとびとだったようだ。奴隷以外の6項目は奴隷身分でない自由人を
意味している。

解放奴隷と一括りにされている者たちを人種的に見るなら、その内容は奴隷と大差なかっ
た可能性が高い。つまりこの5千数百人というのはヌサンタラのさまざまな種族から成っ
ていたと解釈されるべきだろう。どういうことかと言うと、最初から自由人としてバタヴ
ィアにやって来たバリ人やムラユ人とは別に、奴隷として連れて来られてからバタヴィア
で解放されたバリ人やムラユ人がこのカテゴリーに入っていると考えられるのだ。

その時期のバタヴィア住民のうちの自由人人口を人種的に並べ替えるなら、華人がトップ
になるように見える。ただしもしも解放奴隷の過半数がバリ人であったということになれ
ば、華人は第二位に立つことになりそうだ。

その傾向がオランダ時代を通して継続したために、ブタウィ文化を構成する諸要素の中に
中華文化とバリ文化が深く混じりこんだ。さらに奴隷人口の最大ポーションを占めたバリ
人が近代ブタウィの祖先になったということを踏まえて、ブタウィ人は奴隷の子孫だとい
う暴論さえ投じられるしまつだった。

この統計調査が行われたバタヴィアという都市の領域はバタヴィア城市を含むはるかに広
い地域に及んでいる。なぜなら奴隷身分の者たちは城市内に定住することが許されず、か
れらは城市の外に部落を作って住んだからだ。バリ人の部落は今でもジャカルタにカンプ
ンバリという地名になって残されている。奴隷で城市内に住んだのは主人の家に住み込ん
で働く者たちだけだった。城市内で働く他の奴隷労働者は毎朝城市にやってきて、夕方に
は自分のカンプンに帰って行った。


バタヴィアの歴史の中の最初の百年間、華人は城市内定住者としてVOCに優遇されてい
たと見ることができる。ところが華人とオランダ人の和気あいあいの関係は1740年に
崩壊することになった。華人とオランダ人の間で武力闘争が起こり、VOC軍の華人虐殺
行動に発展したのだ。華人討伐者に報償金が出るという噂が広まってプリブミ層も華人虐
殺行動に加わったから、華人は一方的に惨殺される立場に立たされた。この事件はインド
ネシア語で華人街騒乱、中国語で紅渓惨案、日本語は紅渓事件または華僑虐殺事件などと
呼ばれている。

バタヴィアにいれば皆殺しにされるのだから、全員がバタヴィアから逃げ出すのが当然の
成り行きだ。バタヴィアの華人はジャワ島の各所に逃げ散ったのである。一方、むざむざ
と惨殺されるのを拒む華人たちは集まって戦闘集団を組み、VOC軍と戦った。しかし戦
争のプロ集団であるVOC軍が優位に立ったのは当然のことで、押された華人戦闘集団は
マタラム王宮を味方に付けるのに成功し、戦火はジャワ島内に拡大して行った。この戦争
は最終的にVOCが華人軍とマタラム王宮を離反させるのに成功し、華人軍は押しつぶさ
れてしまうのである。

この動乱が鎮静したあと、バタヴィアに戻って来た華人たちは、昔のような城市内での居
住をVOCに拒まれ、VOCはかれらを城市の南側に居住させてグロドッ中華街を作った。
そこが指定されたのは、「われわれの大砲が届く距離」という条件にもとづいたためだそ
うだ。もちろんバタヴィアに戻らなかった華人もたくさんいたはずだ。華人がジャワ島内
のありとあらゆる町に住んでいる状況は、この華人街騒乱(紅渓事件)がモメンタムを作
り出した可能性を強く感じさせてくれる。[ 続く ]