「世界を揺さぶったスパイス(7)」(2024年04月25日)

数百年前にコショウの産地だったそれらの部落を訪れた研究センター調査員はほとんどの
場所で、昔の姿をしのばせるコショウにまつわるものを何ひとつ見出すことができなかっ
た。そんな中で、プロサリ山麓のパンダッ村はずれにある丘陵地が古い記録を裏付ける証
明をもたらしてくれたのである。

おまけにパンダッ村からは14〜16世紀のものと見られる陶器の破片や、コショウを粉
にするために使われたと思われる、現代のcobekに似た石の器具類も出土しており、バン
テンがコショウの一大商港になるのを支えた後背地のひとつがそこにあったことをわれわ
れに確信させてくれる。パジャジャラン王国に服属していたバンテンギランの王国が9〜
14世紀にかけてバンテン港をコショウの国際マーケットにしていたのは事実だった。


後にジャワ海に面したバンテンの港がコショウの貿易港として発展するための下地をバン
テン地方の高原部が後背地として作り上げることになった。一時期、世界最大のコショウ
貿易港という名を画したバンテン港のステータスを後背地のコショウ栽培が支えなければ、
そんな歴史は生まれなかったかもしれない。

バンテンにスルタン国が生まれ、巨大なパワーを擁してスマトラ島南部やカリマンタン島
西部にまで覇権を広げるほどに発展したのは、歴代スルタンが行ったコショウによる商業
戦略のたまものだった。だがスルタン国が生まれる前のヒンドゥ王国時代からバンテンの
地は、コショウを求める中国船がやって来る商港になっていた。バンテンがコショウの大
商港になったおかげで、コショウの買い付けを求める中国商人たちはインドまでの長い航
海を行なう必要がなくなったのだ。かれらはジャワ島西岸でその用を足すことができたの
だから。

するとインド商人たちも中国商人に売りたい品物をバンテンに持ってくるようになった。
インドまで来る中国船が減少すれば当然起こる反応だろう。こうしてインドと中国を結ぶ
海上交通は豊かさを増して行ったにちがいない。バンテン港もそれに伴って栄えるように
なった。


バンテンにスルタン国が誕生したのは、マジャパヒッ領内に生まれた、ドゥマッを盟主に
するイスラム都市国家群のイスラム勢力拡張政策とポルトガル人の東南アジア到来が引き
起こした帰結だった。折しも、西ジャワを支配していたヒンドゥ王国パジャジャランの支
配下にあった商港バンテンでは、パジャジャランの支配に服する地元の王族の中にイスラ
ム化を目指す一派が現れてバンテンは完全な反イスラムの砦でなくなっていた。

パジャジャランの王宮はそのころ、領内のイスラム化を防ぐための諸活動、そしてまた中
部ジャワから来るイスラム軍との戦争に明け暮れててんやわんやの状況になっていた。反
イスラムのポルトガル人がマラカを奪取した後、パジャジャランはマラカに使節を派遣し
て反イスラム同盟締結を申し入れ、1522年にマラカからポルトガルの使節がパジャジ
ャランの王都を訪問して、通商と軍事同盟を根幹にする友好条約ができあがった。

ジャワ島北岸の有力商港をイスラム化してジャワ島に確固たる基盤を設ける方針を進めて
いたドゥマッのスルタン トレンゴノはパジャジャランとポルトガルの同盟を一刻も早く
粉砕する必要に迫られた。そのためには、ポルトガルの軍事基地が置かれることになった
バンテンとスンダクラパをイスラム軍が征服することが最善の対応になる。

1524年、スルタン トレンゴノはチルボンのスルタンであるスナン グヌンジャティと
合同でバンテン攻略軍を進発させた。総大将はスナンの息子であるマウラナ・ハサヌディ
ンだ。Bantenの語源だったと見られているWahantenの地には、内陸部寄りのワハンテンギ
ランと沿岸部のワハンテンプシシルに王宮があり、プシシルの方はマウラナ・ハサヌディ
ンの叔父にあたるアリア・スラジャヤが統治していた。ドゥマッ=チルボン連合軍が海か
ら進攻して来たとき、プシシルでは抵抗戦がまったく起こらなかったそうだ。

バンテンギランの王宮にはヒンドゥの王者を証明する聖器が置かれていて、そこの支配者
がパジャジャランの王宮と密接につながっていたことを示している。ところがワハンテン
ギランの王宮にもイスラム化したパジャジャランの重臣が数人いて、マウラナ・ハサヌデ
ィンの軍勢に肩入れをし、ヒンドゥ統治者はあっさりと打ち負かされてしまった。
[ 続く ]