「居留地制度と通行証制度(4)」(2024年04月26日)

VOCにとって華人は何だったのかということを考えてみたとき、ヌサンタラという土地
に住む原住民である種々雑多なプリブミとは別の、開明度において多少ともレベルの異な
った異民族というプロファイルが浮かび上がって来る。ヌサンタラの諸港市に昔から住ん
でいた異民族で人口的に最大の集団である華人をオランダ人がどのように利用できるかと
いうことに関していくつもの解答案が出現したことだろう。オランダ人にとっての植民地
統治手法の鉄則である分割統治のコマとして華人は徹底的に利用された感がある。

VOCという会社にとっては、植民地における原住民統治は決して最高位の使命でなかっ
た。それが最高位の使命になるのはオランダ東インド植民地統治が開始された1816年
以降のことだ。会社の最高位の使命は収益活動なのである。VOCが軍隊を持ち、国家代
表権を持ち、協定条約締結権を与えられていようともその本質は会社なのであり、国家の
意志を遂行する機関でなかったことを忘れてはなるまい。


VOC時代にせよ、東インド植民地時代にせよ、華人はアラブ人などと同様の、原住民で
ない居留異民族だった。オランダ東インド政庁は植民地統治における住民の資格を定める
決定を1854年に政府規則Regeringsreglementの形で行った。これはVOC時代に出来
上がっていた概念を法的に確定させることだったように思われる。VOCがそれをしなか
ったのは、組織原理に照らしてそれがVOCにとって重要なことでなかったからではない
だろうか。

1854年政府規則はオランダ東インド社会の構成員を、 Europeanen(ヨーロッパ人)、
Vreemde Oosterlingen(東洋人在留者)、Inlander(ネイティブ)の三カテゴリーに区分
した。実務上で華人・インド人・アラブ人・ムラユ人が東洋人在留者のカテゴリーに入れ
られた。


居留異民族はオランダ東インドに住んでいても自分の本国を持っている、という観念が当
時の常識になっていた。つまり居留外国人の背中には本国に延びている紐があって、その
紐に関わる問題が起これば外交問題に発展する可能性があり、そうなれば植民地統治者も
本国を巻き込まなければならなくなるのである。その反対に居留外国人の本国が政治的な
何かを居留外国人にさせる可能性だってあるのだ。そういう意味で、居留外国人の監視は
ネイティブと同じようなレベルでは済まないことになる。

そのために監視をしやすくするのは重要な対策であり、また好き勝手にかれら外国人が植
民地内を移動できないようにするのも道理にかなう方針になる。外国人を人種別に特定の
居留地区に住まわせ、その人種コミュニティへの警察の監視の目が行き届きやすいように
する政策としてwijkenstelsel(居留地制度)が実施された。

また定められた居留地区を離れて別の行政管区を訪れる場合に通行証を申請させ、それを
持って先方へ行き、先方の行政官の確認サインをもらって自分の居留地に戻り、申告通り
の旅をしてきたことを報告させるという行動監視システムとしてpassenstelsel(通行証
制度)も実施された。


居留地制度については、この南洋に昔からそのひな形が存在していた。ある原住民王国に
異民族の者がやってきて居留を願い出ることが起こると、住まわせることにメリットがあ
ると感じた王はそれを許可する。居所は王国側が指示することになる。その異民族の居留
者が増加すると、王はコミュニティの自治を許し、統率者を指名してその者を王国行政統
治機構の中に位置付ける。居留地の場所についても斟酌がなされることになる。その異民
族コミュニティが王国を乗っ取ろうとすれば叩き潰さなければならなくなるからだ。
[ 続く ]