「世界を揺さぶったスパイス(8)」(2024年04月26日)

それまでワハンテンの地における行政の中心になっていたバンテンギラン王宮は放棄され、
マウラナ・ハサヌディンはバンテンプシシルの王宮に入ってバンテンの統治を開始した。
バンテンプシシル王宮は後に建て替えられてスロソワン王宮という名前に変わった。それ
までヒンドゥとムスリムが混在していたバンテンの住民生活をイスラム化させるためにマ
ウラナ・ハサヌディンは大車輪の活動を開始する。

マウラナ・ハサヌディンがすぐにバンテンのスルタンになったわけではない。バンテンは
チルボンの属領としての地位を数十年間続けてから、1552年にやっと独立したスルタ
ン国になり、マウラナ・ハサヌディンが初代国王の座に就いた。つまり、その年までバン
テンの王はスナン グヌンジャティだったということになる。


スナン グヌンジャティは1525年にイスラム布教のためにランプンに入った。イスラ
ム化したランプンの小王国はチルボンに服属した。イスラム化しなかった国々を征伐する
ためにマウラナ・ハサヌディンは1530年からランプンへの軍事作戦を開始した。

ランプンの大部分を伐り従えたバンテンは更にパレンバンへと迫ったが、その企ては成功
しなかった。ともあれ、バンテンは征服したランプンの住民にコショウを栽培させ、それ
をバンテンに売るように義務付けた。インドネシア版の強制栽培制度と言ってよいかもし
れない。強制栽培というものを何もオランダ人の、しかもファン・デン・ボシュの専売特
許だったと考える必要はないだろう。イギリス東インド会社のトーマス・パーもブンクル
でコーヒーの強制栽培を行っているのだから。

ランプン南部を支配していたプグン王国はスナン グヌンジャティのイスラム布教を受け
入れてランプンにおける親バンテン王国のさきがけとなった。後にマウラナ・ハサヌディ
ンがランプンに来たとき、マウラナはプグンの王女を妻に求め、ランプンに自分の子供を
作った。その子供が成長してランプン南部にダラプティ王国を作ったとき、バンテン王国
はダラプティとの間で、領民ひとりひとりにコショウを最低5百本植えさせ、収穫をバン
テンに売るようにという協定を結んだという話が残されている。


ヒンドゥ時代にはバンテンの高原部だけが商港バンテンへのコショウ供給源だったが、ス
ルタン国になってからランプンそして南スマトラ産のコショウがバンテン港の国際市場に
流れ込むようになった。

バンテンからランプンにかけての一帯でコショウはいい値段で売れたから、農民はコショ
ウ作りに励むようになり、水田耕作をないがしろにする村が増加した。為政者にとって、
それはまずい状況をもたらした。コショウの過剰生産で価格が暴落し、おまけに食糧作り
がおざなりになっては飢えの問題がいつ浮上して来るかわかったものではない。バンテン
のスルタンはコショウ生産の合理化をはかるとともに、コショウ農園を水田に転換させる
方針を打ち出して状況の改善をはかった。

バンテンの商港を都にしたバンテンスルタン国は16世紀末から17世紀末までのおよそ
百年間黄金時代を謳歌したあとVOCの支配下に落とされ、最終的にダンデルスによって
1813年に滅亡した。[ 続く ]