「居留地制度と通行証制度(5)」(2024年04月29日)

コミュニティ統率者がカピタンと呼ばれるようになるのはポルトガル人が東南アジアにや
ってきてからのことだろう。インドネシアの小スンダ列島からマルク地方、そしてフィリ
ピンにかけての地方では村の首長を指す言葉として使われている一方、スマトラ・ジャワ
・マラヤ半島・シンガポールにかけての一帯では、異民族コミュニティの統率者を指して
使われた。この意味でのカピタンは住民管理行政機構の一端に置かれるのが普通であり、
統治支配者にとっては統治機構の一ポジションという意味合いを持っていた。タイのアユ
タヤで山田長政が王宮との関りを持つようになるのは、カピタンニッポンとしての立場か
ら当然起こったことだろうという気がする。


西洋人が東南アジアにやってきたころ、東南アジア各地ではそのような異民族居留地制度
が既に確立されていた。御朱印船の時代に南洋にできた日本人町というのも、そんな異民
族居留地制度の中のひとつとして眺めるほうが自然ではないだろうか。日本語ではそれを
町と表現しているものの、ヌサンタラではそれがカンプンと呼ばれた。東南アジア大陸部
にはカンプンブギスやカンプンジャワがあちこちにできたし、ヌサンタラでもカンプンチ
ナやカンプンアラブあるいはカンプンクリンがあちこちにできた。

ヨーロッパ人がやってくる前からバンテンにはカンプンチナがあり、そしてジャヤカルタ
にもカンプンチナがチリウン川東岸にあった。VOCバンテン商館がジャヤカルタに分所
を設けることを決めて駐在員を派遣したとき、ジャヤカルタの統治者はオランダ人の居留
を許可してカンプンチナに住むよう命じた。オランダ人駐在員はチリウン川東岸の海岸部
に商館を建ててビジネスを開始し、その商館が後にJPクーンの指示でカスティルバタヴ
ィアに変身するのである。

バンテンがコショウ貿易でたいへん栄えていた時代、王国の首都スロソワンは殷賑を極め
ており、統治者は住民の居住地区を職業や種族を規準に置いて定めた。特に異民族は城壁
に囲まれた王都の外に居住するように命じられた。港の西側にプコジャンが作られてアラ
ブ・グジャラート・エジプト・トルコ人がそこに住んだ。カンプンチナはバンテン大モス
クの西に設けられた。

王宮から5百メートルほどの距離に設けられたカンプンチナに住んでいる華人は現在わず
か4世帯しか残っていない。しかしかつてのプチナンに建てられた中国仏教寺院のVihara 
Avalokitesvaraは今でも華人の祝祭日にとても賑わっている。


ちょっと話がそれるが、その仏教寺院ウィハラアワロキテシュワラの由緒に関するこんな
話がある。この寺は1542年にスナングヌンジャテイがバンテン大モスクに隣接して建
てさせたという説があり、現在の場所には1774年に移されたという話になっている。
この話には華人女性オンティエンニオが登場する。オンティエンニオは純血華人女性で、
中国からしばしば東南アジアにやってくる商人のひとりだった。当然ながらかの女の船に
は多数の操船者や従者あるいは武装兵が乗り組んで統率者であるオンティエンを補佐して
いた。

あるときバンテンにやってきたオンティエンがそこに居合わせたチルボンの王であるスナ
ン グヌンジャテイに見染められて妻になった。オンティエンは王妃のひとりになってチ
ルボンで王宮暮らしを始めた。かの女の船に乗っていた部下たちの中にバンテンに住み着
く者が大勢いた。オンティエンは元々仏教徒であり、部下たちもほとんどが仏教徒だった
から、バンテンに住み着いた部下たちのために仏教寺院を建ててやりたいとオンティエン
がスナングヌンジャテイに相談し、スナンが快諾してそれを建てたというストーリーだ。

例によってオンティエンニオに関する別バージョンの話も巷に流布している。オンティエ
ンは明皇帝の王女陳鳳珍娘だと言うのだ。その名前はタン・ホンティエンニオと読む。
元は広大なアジア大陸を征服してひとつの統治機構の下にさまざまな民族を共存させたイ
ンターナショナル国家だった。西アジアや中央アジアから大勢のムスリムが中国本土にや
ってきて政府行政機構に関り、あるいは民間人として暮らした。そんな国民社会を受け継
いだ明もイスラム文化が国民文化の中に浸透したことを異としなかった。明皇帝の王女も
日常生活の中でイスラムに特に違和感を感じることはなかったようだ。[ 続く ]