「居留地制度と通行証制度(12)」(2024年05月13日)

ガルッと言えば、かつてこんな事件もあった。バンドンに住む西洋文字などチンプンカン
プンの新客華人がチアミスへ行こうとして通行証を得た。そのころはまだ鉄道がガルッま
でしか開通していなかったので、チアミスへ行くにはガルッまで汽車を使い、そこから馬
車や徒歩でチアミスに向かうのが普通一般のルートだった。だからガルッで汽車を降りた
らガルッの役所へ行って通行証に通過サインをもらうことが定められていた。

その新客華人がガルッの役所を訪れてサインをもらおうとしたところ、役所の側がいきな
りおまえは違反したと言ってかれを捕らえた。通行証にはかれが行こうとしているチアミ
スでなく、チバトゥという地名が書かれてあったのだ。

バンドンからチバトゥへ行くのにガルッを経由すると遠回りになり、便宜がよくない。バ
ンドンからは直接チバトゥへ行くほうが時間も費用も合理的だ。だからこれは通行証の悪
用であると役所側は考えたようだ。

ガルッのポリシロルで新客華人は言い張った。「自分の行先はチアミスであり、チバトゥ
ではない。自分は華人オフィサーに頼んで通行証を申請してもらったのであり、オフィサ
ーに出した紙には間違いなくチアミスと書いた。」

警察判事は部下に華人の証言の真偽を調べるよう命じ、新客華人を留置場に入れないでガ
ルッの華人オフィサーに身柄を預けた。

数日後にバンドンのアシスタントレシデン役所から返事が来た。通行証は確かに目的地を
チバトゥとして出している。しかしレッナンチナからの申請の書状には目的地がチアミス
と書かれている、というのがその内容だった。

で結局この事件はどうなったのか。ガルッのポリシロルは通行証の誤用として罰金10フ
ルデンの罰を科し、更にガルッから先へ行くことを禁止してバンドンへ身柄を送り返した。
ポリシロルの言い分は、「バンドンでおまえの申請を手伝った華人オフィサーと当方は何
の関係も持たない。通行証発行者であるバンドンの役所との間にしか業務上の関係は起こ
らない。バンドンの発行者が目的地をチバトゥとして作成したのだから、この通行証は当
方にとって正しいものなのであり、おまえがこの通行証を間違って使ったということにな
る」というものだった。一方、新客華人もこの決着を喜んだそうだ。チアミスへ行く用が
果たせなかったのは残念だが、数日間ガルッに滞在でき、そして手錠なしでバンドンへ戻
れたのだからそう悪いことでもなかったようだ。


ヴィレム・ローゼボーム第64代総督のとき、1904年官報第378号で通行証の新企
画が発効した。ジャワとマドゥラで、汽車や電車で結ばれたレシデン統治区の首府の間を
汽車や電車で往来する異民族居留者の中の社会的な名声を持つ者に対して最長一年間の数
次通行証が与えられるという内容だ。そして訪問先で行政長官の確認印をもらう義務も免
除されるのである。ただしソロとジョクジャはこの数次通行証の対象から外されている。

この企画は必ず汽車や電車を使わなければならないから、鉄道が通っていないレシデン統
治区へ行くときには使えない。更にレシデン統治区の首府の町にしか行けないので、首府
の周辺の町へ行くことができない。

たとえばバタヴィアからスマランへ行き、更にクンダル・バタン・プカロガン・トゥガル
・チルボンを回ることができる。ところがその線路の他の駅で降りることは許されないの
だ。他の駅で降りるには通常の一回限りの通行証を持って来なければならない。

チルボンで用事を終えてバタヴィアへ戻る場合、チルボンからスムダンへ行ってランチャ
エカッ行きの汽車に乗るなどということは不可能だ。チルボンまで来た通りのルートを逆
戻りしてバタヴィアへ戻らなければならないのである。[ 続く ]