「世界を揺さぶったスパイス(17)」(2024年05月14日)

エンティコンの有力者のひとりアントニウス・バカ氏はそれについて、こんな話をしてく
れた。ソンタスの村人はオランダ時代のことを密輸時代と呼んでいるそうだ。ソンタス村
のコショウ栽培は密輸時代に始まった。村人は村の周辺で作られているトウガラシ・ナス
・ゴム・その他の野菜類などをマレーシアのサラワク側の親戚に持って行って売ることを
行っていた。国境線に近い場所に住んでいる者がサラワクの親戚に農産物を持って行った
とき、サラワクの親戚の家がコショウを栽培しているのを見て興味を抱いた。

コショウは需要が大きく、また金になる品物だという話を聞かされ、「あんたも作ってウ
チへ持ってくれば一緒に売ってあげるよ」と勧められたから、かれはそこに泊まり込んで
コショウの育生や手入れの方法を教えてもらい、接ぎ木を自宅に持ち帰って植えてみた。
そしてコショウのおかげでかれの家は貧困生活から脱け出したのである。

隣人たちがそれを放っておくわけがない。村中にコショウ栽培が広まり、ソンタス村はコ
ショウのおかげで豊かな村になった。村人たちは村から5〜10キロくらい離れた場所に
コショウ畑を作り、たいてい150〜200本のコショウの木を植えている。


ソンタス村民のひとりルシア・スラストゥリさんもコショウ畑を持っている。「わたしは
もう17年間コショウ栽培をしています。先祖代々伝えられたコショウ畑なんですよ。収
穫は一回に数百キロになります。そのおかげで家を建てることができたし、子供たちに学
歴を与えることができました。」

コショウ栽培は容易だと村民は言う。新しい木を植えるときは、古い木を切って苗にする
だけでよい。施肥もあまりしなくてよいし、せいぜい乾季に水をやるくらいであり、雨季
には当然水やりさえ必要がなくなる。

収穫は年一回で、そのときサラワクから仲買人が買い取りにやってくる。村民の中にはサ
ラワクに収穫物を運び込む者もいる。村民は黒コショウと白コショウの二種類を作ってい
る。黒コショウはただ天日干しして乾燥させるだけだが、白コショウにする場合は数時間
水に浸けて皮を落とし、それから天日乾燥させる。

2014年には、サラワクから来る仲買人は黒コショウをキロ当たり6万ルピア、白コシ
ョウを10万ルピアで買い取った。だいたい一軒の農家で4百キロの収穫があったから、
2千4百万から4千万ルピアの収入があったはずだ。


国境地帯というのはその国の主要都市部から離れていて辺鄙な土地であるのが普通だ。都
市部からたいへん遠いエンティコンまでコショウを仕入れに行こうというインドネシア側
の仲買人はいない。必然的にソンタス村民はマレーシアに生産物を売るようになる。自然
と、サラワク側の経済の中に組み込まれてしまうのだ。

ソンタス村がコショウで栄えていることを聞きつけたスマトラ・ジャワ・スラウェシなど
のひとびとがエンティコンに移住してコショウ栽培を行なう、という流行がインドネシア
側に生まれた。

ソンタス村民はコショウ園を拡張したいと考えているものの、その元手に難渋している。
広げるためにはコショウの支柱樹を植えなければならない。コショウの蔓幹をからみつか
せて立つようにさせなければならないのだ。支柱樹は1年間持てばそれで十分なのだが、
それにコストがかかる。エンティコン地方で一般的な支柱樹はカユブリアンと呼ばれる樹
種のもので、一本4万5千ルピアする。コーヒー園を拡張する農民は2千本の支柱樹を注
文するのが普通だ。その樹はもうサンガウ県にあまり見られなくなっていて隣のランダッ
県から取り寄せなければならないから、運送費がブリアンの樹一本当たり1万2千ルピア
上乗せされる。そんな額の資金を一気に用意するのは、辺地の農民にとってたいへんなこ
とだ。

長いコショウの歴史の中で政策商品としてのコショウとはあまり縁のなかった地方にも、
そんな形でコショウの産地が作られている。サンガウ県エンティコン郡にはいまやソンタ
ス村、ポンティカヤン村、スルトゥンバワン村など、コショウの生産地が増加してきてい
るのである。[ 続く ]