「マカサルの洋学者(1)」(2025年06月12日) その日、Gowaスルタン国の首相Karaeng Pattingalloangはマカサルのそよ風と波音を前に して立っていた。1651年2月の太陽の下で、かれの傍らには娘婿のイ マッロンバッ シが佇んでいる。後のスルタン ハサヌディンになる人物がそのマッロンバッシだ。そこ にいるカラエン パッティ~ガロアンの息子カラエン カルンルンは手にした書物を見てい る。タッロ宮殿とSombaopu要塞のトゥバラニ(クサトゥリア)たちもそこに居並んでいる。 そしてその場に集まっているひとびとの面貌から、実に多種多彩な人間がマカサルの町に 住んでいたことをわれわれは知るのである。マカサル人だけではないのだ。ブギス・マラ カ・ジャワ・チャンパ・ジョホール・ミナン・パタニ・インド・中国・ポルトガル・スペ イン・デンマーク・フランス・イギリス。 17世紀中葉のその時代、東洋の風下の国々の中でマカサルはもっとも殷賑でもっとも国 際的な商港だった。過去百年間に建てられ、また拡張された要塞群に囲まれ、第9代ゴワ 王カラエン トゥマパリシ・カロナに導かれて、ゴワ王国の中心であるソンバオプはその 6百年の歴史の中で最高の人種バラエティに富む住民人口を擁した。実にさまざまな人間 がヌサンタラを訪れ、第10代ゴワ王カラエン トゥニパランガが文書にした保護方針の おかげでソンバオプは通商の楽園になった。外来者に与えられた権利の保証はユニバーサ ル性を持つものであり、ヨーロッパ人来航前のヌサンタラで最初のものだった。 1651年ごろのソンバオプであまり姿を見かけないヨーロッパ人がオランダ人だった。 オランダ人も他の外来民族と同じように、ずっと以前に工場と商館の開設を許可されてい たにもかかわらず、そうなったのである。それは17世紀初頭にヌサンタラの東部海域で 始まったふたつの対立陣営間の冷戦の帰結だった。 ネーデルランド統一共和国議会が命じた全スパイス航路を掌握して独占する方針をVOC はいかなる手段を使ってでも実現させようとしていた。マカサル側は第14代ゴワ国王ス ルタン アラウディンが1615年に唱えたmare librum原則を固持していた。神は土地と 海を作った。土地は人間の間で分割されるもの、海はすべての人間が共同で使うものなの である。だれかが、あるいは特定の種族が、海洋での航海を禁じらるような話は聞いたこ とがない。 1651年まで、ふたつの海洋勢力の間で戦火が燃え上がることはなかったものの、敵対 関係は長期にわたって継続しており、流血事件はいくつかの場所で起こっていた。161 5年4月初め、ゴワの数人の高官がエンクハウゼン号に拉致される事件が起こった。その 事件は最初、友好親善の招きの形で開始され、饗宴が行われてからパーティの催しは斬り 合いに移り、人数的に勝ち目のない戦闘が展開されてゴワのトゥバラニが数名負傷し、あ るいは闘死した。エンクハウゼン号の船長ディルク・デ フリースとソンバオプのVOC 商館長アブラハム・ステルクが進めたその悪だくみがマカサル側の怒りに火を点けた。 1616年12月、オーストラリアへ向かった最初のオランダ船エーンドラフト号が進路 を誤ってマカサル海峡に迷い込んできた。無許可でゴワの領海に侵入したことから領海侵 犯の罪が問われ、加えて20カ月前の狡猾な拉致事件への恨みがそれに重ねられて、マカ サルはエーンドラフト号の全積荷を没収し、16人の乗組員を処刑した。[ 続く ]