「マカサルの洋学者(2)」(2025年06月13日) そんな二つの事件に加えて1634年にハイスベルト・ファン ロードスタインの指揮す るオランダ船隊のソンバオプ海上封鎖や他の衝突事件などが起こったものの、たいていは 外交協定で沈静化した。海上封鎖はマカサルのフィニシ船にとってあまり意味を持たない ものだったし、マルクで行われているVOCのホンギ航海に抵抗するマルクの民衆にマカ サルの船乗りたちが支援を与えることさえ可能だった。 重要な外交協定は1637年6月26日にスルタン アラウディンとアントニオ・ファン デイーメン総督が署名したもので、その条項の中に「ゴワはVOCの敵になる土地で通商 を行わず、VOCはマカサルに商館を開かない」という一項が含まれていた。 世界中のあらゆる民族が通商を許され、地元支配者の保護を受けながら盛んな発展を示し ていたにもかかわらず、1651年までマカサル側はVOCがソンバオプにひとかけらの 建物を建てることも許さなかった。17世紀の世界通商ネットワークの覇者が喜望峰・コ ロマンデル・スリランカ・マラカを奪取し、ヌサンタラの諸所を支配下に置き、更に北東 に向かって台湾や日本への接近に力を注いでいた時期に、マカサルはそんな状況になって いたのだ。 そうではあっても、オランダがマカサル側と通商交易を行うことは続けられていた。アム ステルダム・アントワープ・ヴェニス・ジェノアなどと同様に当時のソンバオプも、西ヨ ーロッパで強まった初期資本主義の精神を基盤に置いた生活と行動を営んでいたのである。 スルタンさえもが自分の商売を行った。首相のカラエン パッティ~ガロアンも、マルク人 ・ポルトガル人・バタヴィアのオランダ人と取引する大規模商人だった。かれの通商ビジ ネスはマニラ・タイ・ゴルコンダにまで達し、かれの持つ船がそこへ航海した。 1644年7月22日、パッティ~ガロアンはオランダ船オウデヴァテル号の船長に66 0レアル相当の白檀の樹と共にたいへん珍しくて高価な品物のリストを渡した。そのリス トの中には周囲4メートルの地球儀、地球の図版、世界地図、天体望遠鏡などが記されて いた。当時の世界で最新最高級のものをかれは求めたのである。 それから7年後、待ちかねていた注文品が届いた。それまでに注文品のいくつかは既に届 いていたが、かれが全幅の期待を込めて待ち望んでいた物が届いた時、かれ自身がそれを 受け取るために港へ足を運んだのである。かれがいかにその品物を熱望していたかをその 振舞いが示していると言えるだろう。ヨーロッパにいる普通一般の学識者ですら、それを 手に入れることを夢見ていた品物だったのだから。 1651年2月半ばのその日、ソンバオプ港の沖にオランダ船が投錨した。いつものよう に商船の来航が町中に伝えられ、大勢の地元民が港へやってきて、港が人間で満たされた。 パッティ~ガロアンもその中にいた。港を賑わしている群衆は首相が買った珍しい品物を ひと目見ようとしてやってきただけなのであり、パッティ~ガロアンの心中とはまるで異 なるものだった。 群衆の中には9年前のできごとを覚えている者が少なくなかった。1642年5月16日、 マカサルの住民におなじみのポルトガル人商人ウェハラが家屋の半分くらいある巨大な、 しかも鼻の長い奇妙な動物を連れてきたのだ。地元民がウェハラと呼んでいる人物の本名 はフランシスコ・ヴィエイラ・デ フィゲイレド。 パッティ~ガロアンは珍獣のコレクションを持っていた。アフリカのアンテロープ、さま ざまなアジア馬、アラブのラクダ・・・。[ 続く ]