「マカサルの洋学者(4)」(2025年06月15日) かなりの苦労を余儀なくされた地球儀の陸揚げが終わり、それはたくさんの人間を従えて 宮殿めざして担がれた。雨季の名残の層積雲に弱められたセレベスの太陽の下を進むその 道中で、緩やかな衣服を着た子供たちが歓声を上げた。その大きな地球儀は最終的に、大 きな西洋の楼鐘が飾られているパッティ~ガロアンの書斎に運び込まれた。 その書斎にある書籍の大半がそうであるように、その鐘もヨーロッパから運ばれてきたも のだ。流血に満ちた宗教戦争でヨーロッパを引き裂いた、まるで異なる尖塔の上で鳴らさ れる鐘の音をかれ自身が体験したかったにちがいあるまい。かれ自身がそれに似たような 戦争を体験している。確実に言えるのは、音響学と音波の伝播に関する法則にかれが興味 を抱いていたということだろう。 光線のジオメトリックな性質を暴いてかれの興味を引いた三角プリズムもその書斎にいく つか置かれていた。明らかにかれは光線が分解されるビジュアルなイメージにも興味を抱 いたのである。昼も夜も物理学と数学の書物を手から離さないこの人物は光線の波長に関 する観念とどこまで格闘したのだろうか。 そのころ地球の反対側で、イタリア人物理学者フランチェスコ・マリア・グリマルディの 名前がヨーロッパの科学史に記録された。グリマルディは光線の回析法則を発見して光の 波長概念の理論に裏付けをもたらした。 この首相はたいへん広い自分の書斎に外国からの客を迎えて、客人の言葉で会話し、また 議論するのが常だった。ベトナム語のラテン文字表記を考案したアレクサンドル・ドゥ ローデ神父もかれの書斎を訪れた客のひとりだった。 月食に始まってスペインのドメニコ派ブラザーであるルイス・デ グラナダの作品に至る まで、パッティ~ガロアンはそのイエズス会宣教師とさまざまなことがらを語り合った。 篤信の宣教師であるそのフランス人神父はパッティ~ガロアンをキリスト教徒に改宗させ ようとして全力を尽くした。ふたりの会合は何度も行われ、そして友好的な別離で終わっ た。神父は世界に知らせるために、パッティ~ガロアンに関する賞賛にあふれたメモを持 ってゴワから去って行った。 ドゥ ローデ神父の書いた記録からわれわれは、パッティ~ガロアンがいかに宗教・歴史・ ヨーロッパ文明への深い関心を抱いていたか、そしてかれの書斎がいかにたくさんの書物 と学術ツールに満ちていたかを知ることができる。応用科学における数学の価値を理解し た東南アジアで最初の人間がかれだった。当時知られていたあらゆる学問、中でも宗教と 自然科学への果てしない興味は理論的な好奇心を超越していることを示していた。 宗教と自然科学は人類が発見したもっとも野心的な学問だ。大自然がそこに含まれる一切 の主体者であって、同時にユニバーサルな時空に起きるすべてのものごとを解き明かす鍵 を握っていることをそのふたつの学問は主張している。 奇妙なことに、ドゥ ローデ神父の記述には首相の書斎に文学書が置かれていたことに関 する記載がない。パッティ~ガロアンの学識を書き遺したひとたちのほとんどが商業界や 宗教界の人間であり、その二種類の人間というのは戯画的な表現をするなら、アートとイ マジネーションに信頼を置かない性質を持っていたから、ということがその原因だったの だろうか?[ 続く ]