「続々・借用語のカオス」(2025年06月25日)

ライター: 文司、バンドゥン在住、スジョコ
ソース: 2005年3月12日付けコンパス紙 "Mengkritisi... Uuhh!" 

まるで燎原の火のように、過去2年の間にkritisi, mengkritisi, dikritisiという言葉
があちこちに広がっている。たくさんのひとに好まれているのだ。理由は容易に推測でき
る。言葉に威厳が感じられるのである。要するに、誰に対してでも使える言葉ではないの
だ。われわれは言葉に高尚な嗜好を持っている。カッコよい言葉に対して。

だからこそ、kritisiと呼ばれる人間が小中学生や一般大衆であったためしがない。大学
生すらその範疇に入らない。対象になるのは成熟した大人であり、大都市の住民なのだ。
kritisiと呼ばれる人間には人並優れた頭脳があり、妥当な学歴を持ち、頭がよく働き、
鋭い思考をする能力がある。

たいへん面白いのは、その言葉が同義のインドネシア語を一掃したことだ。たいへんなこ
とじゃないか。他の言葉がなじまなくなったのでなく、位負けしたのだ。われわれの言葉
は西洋語の津波を浴びると、いつも敗退する。いや、正確な言い方をするなら、われわれ
が負けさせるのだ。しかも喜びと誇りの中でそれを行っている。言語の世界におけるわれ
われの主権が蝕まれていくのを放置している。


ずっと昔からkritikusという言葉があった。しかしこの言葉がどんどん色褪せていること
をわれわれはみんな知っている。言葉の由来を知っている人間が減ってしまったからだ。
それに交代したのはオリジナルインドネシア語でなくて、やはり西洋の薫りが芬々と漂う
kritisiだった。言うまでもなく、pengritikと言っても同じことを伝えることができる。

ところがそんな言い方をすると値打ちが下がってしまう。学がない、軟弱に聞こえる、カ
ッコ良くない、エリートっぽくない。そのため、新聞やラジオに使われる文章を書く人間
はkritisiを採用するのである。そりゃ確かにそうだ。kritisiと呼ばれる人間はそんじょ
そこらにうろついている連中とわけがちがう。大都市に住んで世間から一目置かれる人間、
サンダルでなく靴を履き、ネクタイをし、地位があり、車を持っている人間だ。都市でな
くて県に住んでいるような人間では不十分なのだ。

celaという語は誰でも知っている。pencelaはどうだろう?あまり聞いたことがない。じ
ゃあ、pecelaは?もっと知らない。言うまでもなく、それらはcriticやkritikusと意味が
違う。criticという言葉の中には褒めることも含まれているのだから。

しかしもしもたまたま、かれが褒めないでmencelaを行ったとき、われわれがpencelaとか
れを呼んでも間違いにはなるまい。それともpenyangkal, pencerca, penuduh, penggugat
あるいはpenempelakなどと呼ぼうか?あるいはpencacat?それのどこが難しかろう。

membantah, menyanggah, menentang, menukasなども使おう。ミナン人はsolangに由来す
るmenyolangを使う。だからそういうことを行う人間をpembantah, penyanggah, penuduh, 
penentang, penggugat, penukas, penyolangと呼ぶことができる。takiに由来するpenaki
と呼んでもピッタリだ。かれはbertakiしたのだ。もっと上品に言うならpenegurだろうか。
teguranはkritiekやcriticismに対応しているだろう?

tegur sapaという使い方をすればteguranは上品で丁寧なものになるが、もっと激しく鋭
いものにもなれる。kritiek, tempelak, tukasanなども同じだ。話者がmenegurを行うの
であれば、menegurと言えばいいではないか。mengkiritisiなどと言うよりもはるかに自
然だ。

もっと一般的に使われているのがmenimbangだろう。そうすると、kritikusやkritisiは別
名がpenimbangということになる。juru timbangと呼びたければ、どうぞご自由に。かれ
が語る言葉はtimbanganになる。


kritisiと昨今呼ばれている者はmengupasも行う。であればかれはpengupasであり、ある
いはjuru kupasだ。pengupasはkupasanを述べる。そのkupasanがbantahan, sangkalan, 
celaanあるいはpenimbangan, anjuran, penghargaan, pujianを趣旨にしているのなら、
kupasanはcriticismと同義になる。そうでない場合にkupasanはanalysisと同義だ。

また別の言葉にbahasがある。これはアラブ語源なのだが、それを知っている者はもうわ
れわれの間にいない。信じられないかもしれないがbahasは名詞であり、criticismの意味
でも使える。Orang bisa menyampaikan bahas tentang akhlak kita dewasa ini.という
使い方になる。bahasanやpembahasanにしなくてもよいのだ。それをする者はpembahasあ
るいはjuru bahasということになる。

ならば、kritisという言葉は何なのか?gawatのことだと言うのなら、gawatを使えばいい
じゃないか。gentingでもいいし、rawanでもかまわない。どうしてkritisを使わなければ
ならないのだろうか。だって、kritisという言葉は違う意味にもなるのだから。