「続・印尼華人の実像(2)」(2025年06月29日) 中華文化が築き上げた伝統祝祭である陰暦正月が2002年の法規でインドネシアの公式 休日に指定されたとき、華人系プラナカン国民の中にそれを祝う家庭がもちろん多数を占 めたものの、まったく祝わない家庭もあった。目の細いひとびとはひとり残らずその祝祭 を行い、中国歌曲が流れている屋内で中国語でお祝いを述べ合っていると非華人系プラナ カン国民は想像するようだが、現実はその通りになっていない。 全国におよそ6百万人いると推測されているその目の細い人種国民は日常生活をインドネ シア語もしくは居住地の地方語で営んでいるのが現実なのである。専門家によれば、中国 語を自在に操れる者は10万人ほどしかいないそうだ。 何らかの属性でまとめられる事物や現象の内容が千差万別になっているにもかかわらず、 そのカテゴリーを構成するものを均一と見なして全体を単一のように考える人間は世界中 に大勢いる。わたしはそれをラベル思考あるいはレッテル思考と呼んでいる。 印尼華人というのはひとりの人間ではなくて数百万という個人の集合体であり、人間には 個性があることから画一的行動を執る可能性は低いのが天然自然の理法だと思われる。元 々は同一文化の子供たちであるために、文化が定めている価値基準に従って行為行動の類 似性はもちろん起きるだろうが、個性や置かれた環境などが個々人の間で差異を生み出す ためにバリエーションなしには済まないはずだ。 単一の価値基準をベースにした画一的な行動を執る人間集団には、その現象を起こさせる ための強制的な何かが存在していなければならないだろう。往々にしてその何かがネガテ ィブな精神性を柔弱な構成員にもたらし、自分は集団秩序の犠牲になっているという被害 者意識が社会生活における本人の幸福感を減じさせる一因になっているようにも思える。 そのような画一的人間集団は往々にして、この地球上にいる種々の人間集団も自分たちと 同じような原理で生きていると考え、異なる原理で営まれている社会に自分が従っている 社会原理を投影しようとする者が多いように見える。 そのために、印尼華人は中国語で生活しているのですか、漢字が書けるのですか、陰暦正 月を祝うのですか、といった質問を発するラベル思考者があふれるほどいる。かれらはい ったいどの時代の誰のことを尋ねているのだろうか? それを、単に傾向を尋ねているのだと解説する御仁がおり、更には自分の狭い体験を語っ てあたかも自分が数百万の印尼華人をほぼ見通したような回答をする有識者までいる。そ れが昔ながらの人間の性だと言うのであれば、人類の進歩というのがどの程度のものであ るのかということがその現象から感じられるにちがいあるまい。はたして、人類は本当に 進歩しているのだろうか? 印尼華人は均一でないというテーマは1940年代ごろから論じられていた。それ以前は 新客一世とプリブミに産ませたプラナカン子孫の対比が主流を占めており、華人プラナカ ン作家リム・キンホーが1939年に書いた論説は新客とプラナカンの違いをこう描写し ている。 昔われわれの先祖は身一つでやってきてミリオネアになることができた。しかしプラナカ ンたちは立派な邸宅に住み最新型自動車に乗っていながら、何をしているのか?金のお だりだ! その原因はプラナカン層が生きるために闘う精神をもっていない点にある。旨い物を食べ 楽しく暮らすことがかれらの重視している人生だ。茹でピーナツの行商に回ったりするよ りも、無職で明日をも知れぬ身になろうが、喧嘩屋・詐欺師・スリになろうが、その方が いいと思っているからだ。[ 続く ]