「続・印尼華人の実像(3)」(2025年06月30日) 同じようなことをクウィ・テッホアイも1933年に書いている。華人一世とその子孫の 違いの典型的なケースとして、成功者になってからもツギの当たった服を着て朝からこま めに身体を動かして仕事する、質実剛健をモットーにする父親と、良い服を着て旨い物を 食べ、仕事は雇い人を顎で使う軟弱華美な混血の息子というカリカチュアがしばしば語ら れている華人親子のコントラストなのだそうだ。 リムもクウィも世代や立場・環境の違いを指摘したのだが、同じ華人プラナカンの間でも、 宗族つまり姓が同じ者同士の間に生じる特別な仲間意識(それを裏返せば排他意識になる)、 中国本土での人種的な違いがもたらす他者意識、世代の違い、トトッ(祖国の純血者)と プラナカン(外地の混血者)の間の文化的差異がもたらす差別意識などといった要素のた めに、印尼華人層の構成員の間にも親疎や好悪の感覚が起きるのは当然のことだった。華 人層が指導者を選出する際にも、それらの要素が人物評価の中に混じりこんだ。 昔から新客の一世から2〜3世代くらいまでのひとびとは日常生活で福建語や客家語を使 っていたが、1911年以降はマンダリンが有力になった。一方、一世の始まりが何百年 も前という子孫はたいていがムラユ語や居住しているジャワ・スンダ・マナドなどの地元 言語で生活していた。 後者の場合、生活文化や習慣が中華文化と地元文化の混じり合ったものになり、世代が下 るにつれて中華文化の色が薄まる傾向のために、周囲を取り巻くプリブミ層はかれらに対 して異文化人という感覚を抱かなくなる趣が強かった。その状態は更に1965年から始 まったインドネシア国民教育義務付けによって、華人プラナカン層のインドネシア化が促 進されたのである。 父祖の地の文化を受け継ぐことに対する心理は非誘導的になり、その意欲が低下した。陰 暦正月の再開が公認されたところで、自分の現実生活との関りの感じられない者も少なく なかったようだ。ましてや、1940年代に印尼華人層の間で起こったキリスト教への改 宗ブームの一翼を担った家系においては、なおさらのことだった。 オルバ期には、同化や帰属志向の方向性の違い、宗教の違い、政治機構内の権力者をパト ロンに仰ぐことで発生する人脈の違いなどが既述の要素へのプラスアルファとして作用し、 華人層の中の多様化はさらに深まった。同じ華人層だから構成員は均一で、同胞あるいは 仲間意識でみんな和気あいあいというような甘いものではなかったということだ。 1960年代に華人プラナカン国民の未来と将来に関して三つの見解があったことを19 60年5月27日のスターウイークリー誌の論説が示している。P.K.オヨンの執筆になる その論説によれば、印尼華人層が進むべき道が三種類述べられていた。 ひとつはBaperkiのシアウ・ギオッチャンが説くもので、マイノリティである印尼華人は その人種カテゴリーを維持し、中国とのつながりを緩めず、現在の共産中国に従う政治信 条を持つべきだというもの。この見解は共産主義インテグレーションと呼ばれた。 しかしBaperkiの中にその反対意見もあり、ヤップ・ティアムヒンが唱える非共産主義イ ンテグレーションでは、印尼華人の人種カテゴリーを維持して中国とのつながりを重視す るものの、政治信条は共産主義を採らないという内容だった。 Badan Permusyawaratan Kewarganegaraan Indonesia(Baperki)というのは1954年に 華人プラナカン層が設立したインドネシア国籍協議会という組織であり、インドネシア華 人層にとっての国籍に関連する立場について話し合いを実施する機関だった。[ 続く ]