「続・印尼華人の実像(6)」(2025年07月03日)

インドネシアで有名なCina Medanは北スマトラのメダン出身プラナカンで、大勢がジャカ
ルタやバンドンなどの大都市に出てきた。ジャカルタではプルイッやムアラカランにコミ
ュニティを形成した。挫折にくじけない強固なメンタリティを持っていると信じられてい
て、ある時期、ジャカルタの闇社会の中に位置する華人系グループの頭領もチナメダンだ
と言われていた。正道を歩もうとする者はまず自営業者になった。自営精神の強さは他地
方の比ではないという論評がプリブミの常識になっている。

その強さは裏側に、周辺社会と折り合い調和して社会生活を送ろうとする精神傾向が薄い
という不徳がへばりついていて、何事によらずsemau gueを世の中に押し出す態度が世間
からの反感を招くことも少なくない。

プリブミの世界では北スマトラのバタッ人の物言いが粗野で下品だという定評になってい
て、華人社会でもチナメダンの物言いが荒っぽいという世評がある。しかし下には下がい
て、チナバンカはチナメダンよりもっとひどいということも言われている。陽焼けを嫌う
心理を持っているため外見的にチナメダンは肌の色が白い。


Cina Bangkaは19世紀後半に錫鉱採掘労働者としてやってきた客家人が主体を占めてい
る。バンカの錫鉱採掘史は17世紀ごろから華人の自主的な採掘活動が始まっていたもの
の、オランダ東インド政庁がその事業をモダン化して採鉱作業のために華人を招き集めた。
1920年のバンカ住民人口15.4万人中で華人人口は44%を占めた。

バンカにできた華人社会が低階層社会だったために、知的な生活態度はまったく顧みられ
ず、振舞いや物言いは粗野で下品なものになったというのが、チナバンカの特徴なのだそ
うだ。華人層の中で蔑まれる集団ともなれば、その集団を構成するひとびとは特別の連帯
感情を持つようになるだろう。


Cina Jawaの歴史は16世紀に中部東部ジャワへの移住でスタートしたという説が語られ
ている。中国本土から船に乗ってやってきたのがほとんど男ばかりだったために、新客は
みんな地元女性を妻にして家庭を持った。

ジャワ文化が社会生活で礼儀を重視するものだったために、チナジャワもジャワ人のよう
な生活態度を強く示した。プラナカンの多くは自分の人格基盤の中に幅広くジャワ文化を
溶け込ませている。ほとんどジャワ文化で日常生活を送っている華人系プラナカンの中に
はジャワ王宮で要職を得た者もいる。

過去に興ったインドネシアの諸王国の統治機構の中で人種差別はあまり顕著でなく、人種
よりも人間の能力を見る眼のほうが冴えていたような印象を感じる。領民に人種差別を煽
るような行動は所詮、領地領民を統治するテクニックのひとつでしかなかったのではある
まいか。


Cina Jakartaはチナブタウィとも呼ばれる。JPクーンが1619年にジャヤカルタを滅
ぼす前、チリウン川東岸にプチナンが作られていた。ジャヤカルタの港に通商をしに来航
する船に、華人たちはアラッ酒・米・塩魚・飲み水などを小船に乗って売りに行った。V
OCは最初チリウン川東岸の湿地の中に商館を設けたが、クーンは商館を要塞に改造させ、
プチナンを取り潰して華人をその場所から追い払っている。[ 続く ]