「続・印尼華人の実像(7)」(2025年07月04日) しかしクーンはバタヴィアの町を建設するために大勢の華人を使った。その中心を担った のがバンテンの華人で、バンテンのカピタンチナだったソウ・ベンコンがバンテン華人コ ミュニティの一部を引き連れてバタヴィアに移り、バタヴィアの町作りと町の運営に貢献 した。 かれら華人は1740年までバタヴィア城市内に住むことを許され、バタヴィア市民にな っていた。一方、城市内に住まずバタヴィア城市を取り巻く近隣の地域に住んで農業漁業 を営んでいた華人もいた。多分ジャヤカルタのプチナンからクーンに追い払われた者もそ こに混じっていただろう。城市外に住む華人はCina Udikと呼ばれて、城市内にいるCina Kotaと区別された。 バタヴィアというエリアはVOCという会社の領地であり、バタヴィア城市内がそのエッ センスになることから城市内での暮らしはVOCの厳密な監督下に置かれていた。17世 紀の城市外はVOCにとって秩序統制がまだまだ不十分な時代であり、VOCは城市外の 華人統制をカピタンチナに行わせるのが関の山だったようだ。だからその時代のチナウデ ィッとチナコタの区別は顕著なものがあったのではあるまいか。 1740年の事件でチナウディッの一部はタングランに逃げた。一般的に言ってタングラ ンの町の居住者はチナベンテンであり、タングランに逃げたチナウディッは町に入らず、 郊外部で農業を営んだそうだ。現在タングラン県に住んでいるチナウディッは県内のパノ ガン、チチュルッ、ルゴッが本拠地だそうだ。 タングラン県のチナウディッコミュニティは、自分たちの伝統を強く守っている。かれら の祖先がタングラン県の三地域に居住を始めたころの年代記は存在しないために良く分か らないものの、コミュニティ統率者は、祖先がこの地に住み着いたのは1740年の事件 よりもっと古いころであり、現在の子孫は7世代目に当たると語っている。 最初やってきたのは25の姓だったが、今残っているのはほんのわずかな姓しかいないそ うだ。チナウディッコミュニティは自分たちがチナベンテンに属していないことを主張し ており、侮蔑的な語感を持っているウディッという言葉で呼ばれても、特にネガティブな 気持ちにならないそうだ。 西カリマンタンのシンカワンから南東に30キロほど離れたサマランタン地方には客家人 をメインにする華人とダヤッ人の混交社会が生まれており、Cina Phanthongと呼ばれてい るひとびとがいる。人口は1千人くらいだそうだ。そのように、印尼華人プラナカン自身 が自分たちを均質でないと見ているのである。 インドネシアの各地方にいる諸種族はそれぞれが独自の文化を持っていて、それぞれの地 方にやってきた華人が地元社会に溶け込んでいけば、スンダ華人・ジャワ華人・マドゥラ 華人・バリ華人・アンボン華人というように文化的に異なる華人が作られることになる。 インドネシアが多様性を踏まえた国家であるということを理解していなければ、その現象 はわからないだろうし、ましてやインドネシアにやってきた華人をラベル思考で見ていれ ば、イメージと実体はますます乖離するばかりだろう。[ 続く ]