「続・印尼華人の実像(10)」(2025年07月07日)

オルバ期からレフォルマシ期に時代が移って8年が経過したころのコンパス紙に、ジャカ
ルタでは一般的に100を超える姓の華人プラナカンが住んでいると言われており、その
中の50から60くらいの姓を同じくする宗族が親睦を深める会合を毎年行っている、と
いう記事が掲載された。会合の中心になっているのは中国からインドネシアにやってきた
一世から数えて20代目の世代だそうだ。劉Lauw、陳Tan、趙Tioが人数的に大きいグルー
プだとグロドッ地区の華人有力者は語っている。

かれらは集まって祖先を祀り、親睦を深め、互いの暮らしを語り合い、ビジネス面の相互
扶助を大切なことがらとして協力し合う。それを人脈の蜘蛛の網と呼ぶひともいる。そう
いった人間関係の強固なネットワークを築くことがその親睦会の目的になっていて、その
結果、宗族会のメンバーの葬式を出したり、仕事を世話したり、病気や災難で暮らしに困
難が発生した場合に扶助し合うといった活動がスムースに行えるようになる。

ビジネス上の協力関係にしても、たとえ宗族関係にない相手であっても同じ華人系の相手
を選択する傾向が強い。だから仕事の発注者と受け手が華人同士であるという社会現象に
なって現れる。その傾向をプリブミはエクスクルーシブだと批判している。

たとえば隣人だが劉姓でない華人系住民に困難が発生したとき、その者が属すべき宗族会
を知らない場合に劉族親睦会がその者の属すべき宗族会に引き合わせるようなことも行っ
ているそうだ。

このような宗族会はたいてい家を一軒持って事務局をそこに置き、諸活動のための本拠と
して使っている。さらにメンバーの家系を記したデータの保管と管理もそこで行われてい
るとのことだ。


華人プラナカン国民を均質で単一な人種集団と見るラベル思考がいかに現実からズレたも
のになっているかは、コンパス紙の時事的な記事の中にいろいろと報道されている。
華人プラナカン層がすべて都市のプチナンに居住して商業を営んでいたという理解は複雑
な現実と合致していない。華人の中には数百年もの間、何世代にもわたって農業や漁業を
続けてきた者たちもいる。ジャカルタからほんの20数キロ南西にあるスルポン地区はチ
サダネ川流域が作った沖積平野にできた昔からの水田地帯であり、およそ40世帯の華人
が先祖代々そこに住んで農業を営んできた。かれらが家業を続けられなくなったのは、ジ
ャカルタのベッドタウン建設方針が農地を町に変えたからだ。

スルポン郡ラワブントゥ村の華人たちは隣のラワレンガン村のブタウィ農民社会と交流し
ながら農業生活を営んできた。その農地を政府がベッドタウン構想のために強制収用した
おかげで、1995年にかれらは家業を続けるための土地を失い、しかし賠償金を得て町
中の住宅用地を手に入れた。そのため、40世帯いた中の7家族がブミスルポンダマイの
住宅地区に今住んでいる。

ラワブントゥ農民のひとりで今はブミスルポンダマイに住み、商店を営んでいるテディ・
ティオは昔の生活の様子をこう物語る。「1980年代ごろまで、わたしらは毎日水田仕
事に追いまくられていましたよ。田植え、鋤起こし、そして一家全員で水田を世話するん
です。」

かれの一家は兄弟が9人いて、ラワブントゥ小学校の裏手の土地2千平米を水田にして米
を得ていた。収穫は一年二回で、収穫物を何十もの米袋に入れて保管し、一年分の食糧を
それでまかなった。野菜も自作し、魚も水田から近い川で捕獲して食べていた。ナマズや
ガブス魚が実に容易に捕獲できたそうだ。ガブス魚とは日本でプラーチョンと呼ばれてい
るものだ。[ 続く ]