「続・印尼華人の実像(11)」(2025年07月08日)

食料は自分たちで作り出していたから、金銭で買わなければ手に入らない物品やサービス
を得るための金銭収入があればそれで事足りた。かれの一家はタングラン市の排水路清掃
作業の仕事をして現金収入を得ていた。その仕事はかれの祖父が道を付けたものであり、
かれの父がその仕事を引き継ぎ、かれもその仕事をしていた。この一家の経済規模を現金
収入で計れば貧困世帯ということになるだろう。だが貧困生活の雰囲気はあまり感じられ
ない。

排水路清掃作業現場へ行くのに、スコップとツルハシを持って自宅からおよそ20キロの
距離を徒歩で往復したそうだ。しかし1980年代にかれはその仕事をやめ、タナアバン
市場で商売する頭家の使用人になった。自宅でも雑貨ワルンを開いていたので、現金収入
もそれなりに十分だったようだ。

かれが子供のころ、ラワブントゥ村の華人家庭の暮らしはラワレンガン村のブタウィ人の
暮らしとほとんど違わなかった。6キロ離れたスルポン市場に近い小学校へ毎日徒歩通学
し、中学校を終えると勉学の時期も終わった。高校は義務教育でないために学費が膨れ上
がる。スルポンの農民一般には手の届かないものだった。

住居も似たような建て方と構造になっており、家屋の形を作るのにナンカの木が使われ、
屋内の床は土間だった。しかしその家の住人が華人プラナカンかどうかはすぐに判った。
華人プラナカンの住居には線香立ての乗った机が必ず家の中に置かれていたのだ。


ブミスルポンダマイに住んでいる7家族の中の、華人コミュニティで長老格のエッチェン
爺さんはテディの家から近い所に住んでいる。この爺さんの家は周囲の庭が畑にされ、バ
ナナ・イモ・シンコンなどの植物が都会風住宅の周囲を飾っている。そればかりか、ニワ
トリ小屋があって親鳥とひよこが走り回り、家の裏手には薪の炉が作られていて爺さんの
妻がそこで煮炊きをしている。爺さんの妻は昔の写真から脱け出してきたような、往年の
華人女性の服装であるクバヤンチムとバティッのサロンで立ち働いている。アーバンライ
フになじまない風景がその一画を珍しいものにしている。

本人のエッチェンは健康のためにそれをしていると語っている。天気が良ければ毎日庭を
手入れして身体を動かしている。隣人の中に庭の草取りなどを依頼するひともいて、エッ
チェン爺さんは喜んでその仕事を引き受けている。

ある日の朝、コンパス紙が取材を申し込み、爺さん夫妻は喜んでそれに応じた。爺さんが
食べている朝食はブリキの皿に置かれた飯と一塊の焼きそばとクルプッだけ。ブミスルポ
ンダマイの住人で環境保護活動家でもある隣人はコンパス紙記者に対して、同地区に住ん
でいる華人系プラナカン住民の間に差別意識があると語った。

華人系プラナカン住民の中にはジャカルタやメダン、あるいはポンティアナッやバンカか
ら来たひとびとがいる。特にジャカルタやメダンといった大都市から来た華人はたいてい
地元スルポンでブタウィ人のように生きてきたひとびとを低く見る傾向が強い。それに比
べれば、ポンティアナッやバンカから来た華人はまだかれらを受け入れている面がある。
都市部出身の華人たちはスルポンの華人層を同じグループと見なしていない雰囲気が強い。
コンパス紙記者はそんな意見も耳にした。[ 続く ]