「akuとkami(前)」(2025年07月15日) ライター: 心理学者、サウィトゥリ・スパルディ・サダルユン ソース: 2010年11月21日付けコンパス紙 "Peerpisahan dan Kebersamaan" 長期にわたって良好な人間関係を維持することは、aku(自分)というパーソナルな知覚 感性とkami(われわれ)という仲間との共生状態の知覚感性をバランスさせる能力を要求 されるために決して容易なことでない。keakuan(自分であること)とkekamian(一体関 係にあること)の間の揺れの強さは並大抵のものでないのだ。 ある一面においてわれわれは、他者から離れて独立した一個人であろうと希求する。つま り自分自身の行動や状態に満足を見出す個人であろうと欲するのである。ところが別の一 面において、われわれは他人と人間関係を構築してその者と親密になろうとする欲求をも 持っている。結婚関係・家族関係・友人関係などの中で相手をわがものにし、同時に自分 が相手のものになるという感覚だ。 今回われわれが着目するテーマは、結婚関係にあるふたりが共生と孤離という知覚感性の アンバランス状態に陥った場合に起こるシリアスな問題についてである。 kekamianという感性が結婚相手との共生関係に不足しているとき、何が起こるだろうか? 感情面における離別がそこに起こることは間違いあるまい。たとえ外見的には普通の家庭 生活を営んでいても、ふたりは感情面で離別状態に陥っている。お互いに自分はひとりだ と感じ、パーソナルな体験や感情を互いに分かち合おうとしない。 kekamianがほとんど無くなってしまえば、どちらか一方、あるいは双方が「わたしはあな たを必要としていない」という表明を言動の中に出現させることになるだろう。たとえ一 つ屋根の下で共に暮らしていても、ふたりは完ぺきな自治と自活の状態にある。そんな状 態になれば、小さな喧嘩が起きる可能性が高い。とはいえ、喧嘩して仲直りし、そのとき に多少の親しさがふたりの間に流れることも起こりうる。 もしもkeakuanがふたりの共生関係に不足している場合はどうなるだろうか?その場合、 ふたりは自分自身の自我を二の次にして相手に尽くそうとするために自己というものが薄 弱になってしまう。自分自身を保とうとする意欲を失い、その代わりに相手を自分として 扱うことにエネルギーを費やすようになる。そのとき、自分が持っている振舞い方の規範 を相手に持たせようとし、相手のビヘイビアを変えることに努める可能性がある。同時に 相手の快適さや満足度に対する責任を自分自身が担い、自己に対する責任をおざなりにし てしまう結果になりかねない。 相手が満足感に浸っている状態を自分が作り出すというパーソナルな責任感の強弱が自分 にとっての重要問題になるとき、ふたりは互いに相手の言動に対して感情的な反応を示す ようになる。その結果、ふたりは互いに相手の悪い点を探そうと努めるために、喧嘩が起 こるとそれは大きなものになる。 ふたりにとってこうあって欲しいと自分が望んでいるようにならないことが起きたとき、 「自分はこれまで最大限の努力をしてきたというのに、相手がその努力を評価して協調し ようとせず、自分のことだけ考えているからだ。」という非難がその内面にこだまするの である。[ 続く ]