「トランスミグラシ(2)」(2025年07月22日)

それよりずっと古くからオランダ東インド政庁自身が東インド植民地をジャワとその他地
方に二分して統治してきた姿勢が、コロニサシという言葉にネガティブな含みを持たせる
ことも起こった。オランダ人はジャワとマドゥラをbinnnenlands Java en Madoera、それ
に対立する語彙としてそれ以外の全地方をbuiten gewestenというディコトミーに作り上
げて使っていたのだ。

クリフォード・ギアツは1971年に著わした作品「農業革命」の中でそれらの対義語を
inner-Indonesiaとouter-Indonesiaに置き換え、水田耕作と陸稲耕作、つまり湿地と乾燥
地を対比する特徴として掲げた。ひとつは先進的であり、もうひとつは後進的であるとい
うことが意図されている。


だから「ジャワ人がコロニサシを行いにスマトラに来る」という言葉の解釈が東インド政
庁の意図した内容と異なるものになる可能性は小さくなかっただろう。1950年代にな
ってオランダ時代のこの移住政策の継続を決めたインドネシア政府は、kolonisasiという
言葉をやめてtransmigrasiに変更し、transmigrasi-pioniersという名称の国家政策とし
て打ち出した。

オランダ語であればtransmigratie-pioniersになるだろうし、インドネシア語ならその綴
りはtransmigrasi-pionirになるのではあるまいか。オランダ語発音ではトランスミフラ
シピオニールになると思われるが、イ_ア語発音のトランスミグラシピオニールを本論で
は使うことにする。

transmigrasi←transmigratie=transmigrationという言葉はインドネシア人が造語した
わけでもなく、また誤用したのでもない。英語辞典の中にtransmigrationはmigrationの
同義語であると解説しているものもある。現代世界の人類はその用法を使わずに別の意味
に使っているため、Transmigration Programはインドネシアが行っている移住政策の固有
名称とインターネット内では解説されている。

スカルノがオランダ人の使うコロニサシという言葉を嫌ってトランスミグラシという言葉
に変えることを1927年に主張していたそうだ。スカルノのインドネシア共和国政府が
政策名称を変更したのははるか昔から決まっていた宿命だったと言えるだろう。

タナサブランというジャワ語は二度と出る幕が与えられなかったように思われる。しかし
果たしてジャワ人はインドネシア政府のトランスミグラシ政策にからんで、その後もタナ
サブランという言葉を使っていたのだろうか?


この政策の推進を図って東インド政庁はオランダ語で書かれたKolonisatie Bulletinを発
行するとともに、ジャワ人向けにジャワ語で書かれた書物も出版した。

1938年にはBojong njang Sabrang(サブランへ連れて行こう)、1940年にはAjo, 
Menjang Kolonisasi(さあ、コロニー作りに向かおう)ならびにTanah Babojongan ing 
Selebes(セレベスの移住先)と題する書物が世に出された。

植民地政庁はジャワ人に移住する気を起こさせるべく言葉を尽くしたものの、魂にしみ込
んだ文化の根が深々と突き刺さっている生まれ故郷とジャワ農民を引き離すのは容易なこ
とでなかった。おまけに、植民地政庁がこのプログラムのプロパガンダに取り上げたタナ
サブランという言葉にこもっているニュアンスにオランダ人は気付いていなかったのだ。
[ 続く ]