「トランスミグラシ(3)」(2025年07月23日) その当時のジャワ島村落部住民のほとんどがタナサブランという言葉を耳にすると、海の 向こうの遠い場所、馴染みのない不安な土地、奇妙な怪物あるいは怖ろしい生き物が住ん でいる所、といったイメージを描くのが普通だった。サブランの人間はジャワ人とまるで 異なる、別種類の人間だとかれらは思っていた。 ワヤンやクトプラッ演劇に登場するraja negri sabrang(サブラン国の王)はたいてい、 プロタゴニスト役を演じるクサトリアの敵であり、見た目も怖ろしいラッササの姿をして いるのが普通だった。そんなイメージを持っていたジャワ島村落部の零細農民たちにとっ ては、移住すれば今よりもっと良い生活が保障されると言われても、移住先での日々の暮 らしにどんな嫌なことや怖いことが待ち受けているかと思うと、喜んで移住しようという 気にならないほうが自然だった。 それでも、1905年に中部ジャワ州「クドゥ」レシデン統治区から155世帯815人 のジャワ農民家族がランプン州のタンジュンカラン西部にあるGedong Tataanに移住して そこに入植した。それは半強制的に行われたものだったと書いている情報もイ_ア語ネッ ト内に見つかる。 それ以来1941年まで、オランダ東インド政庁のコロニサシ政策は総勢22.26万人 をジャワ島から外島部へ移住させた。 インドネシア共和国政府がトランスミグラシピオニールと改名した移住政策の実施では、 1950年12月12日にはじめて第一陣の23世帯77人が中部ジャワからランプンに 向かった。それ以来、共和国にとってはその日がこの政策の記念日になった。毎年、Hari Bhakti Transmigrasiと命名されたその日がやってくると今でも関係諸方面が祝賀会を行 っている。 2005年12月7日付けコンパス紙は、その年11月28日から12月8日まで南ラン プンのグドンタタアン郡バグレン村でコロニサシ100周年・トランスミグラシ55周年 の記念式典が行われていることを報じた。バグレン村が選ばれたのは、オランダ時代のプ ログラムで最初の移住農民が建設した村がそこだったからだ。 そのコンパス紙記事には、オランダ時代以来行われてきたジャワ農民移住政策によって全 国各地にできたトランスミグラシ入植地の総人口は、2005年時点で2千5百万人にの ぼると見られていると記されている。 オランダ時代の第一回とインドネシア時代の第一回の規模が大きく違っているのは、やは り強制力が働いたことが原因だったのだろうか?インドネシア人はどの種族であれ、一家 をあげて移住するということに消極的であり、男だけが出稼ぎに行くということとの質的 な違いがきわめて顕著なように見える。 わたし個人の印象を語るなら、イ_ア人女性は自分が生まれ育った家族への帰属意識がた いへん強く、何歳になっても親や兄弟姉妹との接触を嬉々として行っているように見える。 そんなあり方で一生を終えるのであれば、女性は自分を生まれ故郷で一生を送るべきもの と見なすだろう。女性が一族から切り離されて遠隔地へ夫と移住するということにネガテ ィブな心理が付きまとうのも目に見えている。 ただまあ、わたしの実見聞はブタウィ人のわたしの妻とかの女を取り巻く諸種族の友人た ちに関するものでしかないので、これをインドネシア全体に敷衍すると牽強付会になるか もしれない。[ 続く ]