「デリのニャイ(35)」(2025年07月25日)

「トアンのように高給を得て豪華な家に住んでいるお方のほうがしあわせに決まっていま
すよ。掘立て小屋に住んで金も物もろくにない生活のどこがしあわせなものですか。」
「確かに他人の目から見ればそうかもしれないが、今のわたしの気持ちに比べたらあのプ
リブミのほうが1千倍もしあわせだろう。」
「トアンはどうして結婚しないのですか?」
「あんたも知っているだろう。この土地では、月給が5百フローリンを超えなければヨー
ロッパ人は結婚してもやっていけないのだ。」
「おっしゃる通りですが、しかしプリブミなら月給20フローリンですぐに妻を持ちます
よ。月給が5百フローリンにでもなれば、妻を10人持つでしょうね。」
「そうなんだ。プリブミは収入が小さくても人生を楽しんで生きている。ヨーロッパ人に
はそれができない。」

そんな話をしながらふたりは街道を歩いてまだ明るいうちにトゥビンの町に入った。
「このまますぐにドゥクンの家へ行きますか?」
トアンは懐中時計を取り出して時間を見た。まだ5時半過ぎだ。
「先にニッポンホテルへ行って何か飲もう。ドゥクンの家は日が落ちてから行くことにし
よう。そのほうが人の目に立たないから。」

ニッポンホテルに入って食堂へ行くと、女将がこぼれんばかりの愛想笑いをたたえてふた
りの男客を迎えた。
「何を召し上がりますか?」
「ウイスキーソーダ。二人分たのむ。」
「はい、わかりました。」

食堂の陰に隠れた場所から女の声が聞こえた。トアンはその女の声に聞き覚えがあった。
かれはクーリーに言う。
「あの声はどこかで聞いたことがあるぞ。」
クーリーも同調した。
「わしにも聞き覚えがありますよ。」

その女の声が女将に尋ねた。「誰が来たの?」
「ロスミナのトアンだよ。行ってお相手をしなさい。」
女の声が大きくなった。聞こえよがしに言っている。
「あらあ、あたし恥ずかしいわ。もしもあたしのトアンに告げ口されたらどうしよう。」

「恥ずかしいことなんかあるものか。あんたの声には聞き覚えがあるんだよ、ニャイ。で
も顔が思い出せない。ここにおいでよ。一緒に何か飲もう。来ないと言うなら、探しに行
くぞ。」
ロスミナのトアンは我慢できなくなって、その声の主を探すために奥に入り、女の手を引
いて席に戻って来た。
それはなんと、同僚である別の管理人助手のニャイになっているミンだった。

席に着くとかれはミンに言った。
「ははは。ここで何の仕事をしてるんだね、ミン。」
「あたしはメダンから戻って来たばかり。四日間休みをもらってメダンへ行ってきたんだ
けど、もう一日休みが残ってるから、ここでぶらぶらしてるだけなの。」
「あんたのトアンはあんたがここにいることを知ってるの?」
「いいえ。それより、あたし、いつまでも外に居たくないから、部屋を借りて部屋の中で
飲みましょう?だれかに見られると困るわ。」[ 続く ]