「教育の質と文化(前)」(2025年08月14日) ライター: ヨグヤカルタタマンシスワ サルジャナウィヤタ大学教授、キ スプリヨコ ソース: 2004年3月5日付けコンパス紙 "Problem Kultural Pendidikan Kita" 最近開かれたインドネシアの教育基盤改革に関するキーイシューと題する非公開討論会で 進行役の博士モフタル・ブホリ教授はインドネシアの教育基盤に横たわっている問題点を 三段階に区分した。基本イシュー、構造イシュー、現場イシューの三つだ。 たとえば教育クオリティという概念の不明確さは基本イシューに属し、構造イシューには 国民教育省の官僚主義、現場イシューとして教員のプロフェショナリズムの低さという例 をかれは引いた。 ブホリ教授のその三段階分析は十分にシステマチックなものだ。しかしインドネシアの教 育クオリティを向上させる枠組みの中には、解決が求められているたいへん重要な問題が その他に、もう一段階存在している。文化イシューがそれだ。理論的には、文化イシュー は基本イシューと構造イシューの間に潜んでいる。経験的に言うなら、あらゆる民族がこ の問題を抱えている。意識されているかいないかは別問題として。 あらゆる問題の解決を右脳に分担させないで左脳をもっぱら使用している実態が、米国・ イギリス・ドイツなど西洋諸民族の抱えている文化イシューの一例だ。ところが西洋社会 においてみんながそれを意識しているというわけでもないのである。文化イシューは教育 面において解決を求める際に意識されるべき、きわめて重要なポイントなのだ。 < インドネシアにおける問題 > 他の諸民族と同様に、インドネシアも教育に関する文化イシューから無縁ではない。数え 上げたなら多分けっこうな数に上るだろうし、同類文化の他民族に比べても相当に多いか もしれない。 インドネシアの教育に深く関わっているもっとも根本的な問題は、インドネシアの教育界 自体に浸透している形式主義問題だ。最終的に教育のクオリティに大きく影響を及ぼす実 質面に目を閉じるあり方でこの形式主義文化が実践されている。 明白な構図のひとつに小学校・中学校・普通科高校・技術科高校における生徒の修業判定 がある。学校での成績(PとQ)と全国統一修業試験Ebtanasの点数(R)を織り交ぜて 生徒の卒業を決める現在の方式は、卒業生のクオリティを向上させるための合理的で理想 的なフォーミュラになっている。ローカルレベルのクオリティはPとQに反映され、全国 レベルつまり標準レベルがRで示される。この方式を正しく継続して行くことで、卒業生 の質的向上が実現される。 その合理的で理想的なコンセプトは十数年間にわたって公式に実施されてきたが、残念な ことに、このコンセプトの実践にコンセプトの本質への認識が欠如していた。卒業か落第 かを決めるフォーミュラは形式的に守られているものの、PとQの評点にマークアップが 行われ、学校が決める生徒の評点がおかしなものになっているのだ。頭の悪い生徒のエブ タナスの点数Rは当然低い。ところがその生徒を卒業させるために学校はPとQに下駄を 履かせて修業判定ラインを超えさせることを行っている。頭の悪い生徒ほど学校の成績は ずば抜けて高いものになる。なんというイロニーだろうか。 それだけではない。各学校の生徒卒業率を妥当なものにするために政府はエブタナス関数 (n)を導入してブラッククリエーティビティを追加した。その結果、卒業率の低い地方 が高くなり、卒業率の思わしくない学校が一転して高い卒業率を獲得するようになった。 全生徒が卒業する皆卒学校がたくさん出現するようになっている。生徒の頭は悪いままな のに。 そのような形式主義文化は反生産的であり、教育クオリティ向上の努力は空気を抜かれる ことになる。もっと悲惨なことは、生徒の評点を水増ししたりその正しくない情報を世間 に告知したりするようなごまかし行為を、生徒に手本を示すべき教員たちが公然と行うよ うに強いられることである。教師は生徒が見倣うべきお手本であるべきなのに、そんな教 師を見倣えと生徒に言えるだろうか?大勢の教師たちが長期にわたって自分の良心の声を 押し殺しながら働いているのだ。形式主義文化が栄えるところにそんな教育の破滅現象が 起こる。[ 続く ]