「公民教育(前)」(2025年08月16日) インドネシアの国家原理を体現するべき公民というものの理解を公教育の教員が十分に持 っていないなら、将来国民に育っていく学生生徒を公民にするための教育がどこまで効果 的に行えるだろうか?インドネシアという国家は建国のときからプルーラリズムを宿命と して持つ国家として発足した。いつのまにか国家になり、いつのまにか国家の中をプルー ラリズム状態が埋めるようになったのでは決してない。 インドネシアの公民は現実問題としてプルーラリズムを自らの内部に含有する国民なので あり、異文化・異種族・異社会階層の同胞と肩を組んでこの国家を発展させる権利を有し 義務を負っている。国民のひとりひとりがその権利と義務を行うに際して、異文化・異種 族・異社会階層の同胞を自分の仲間に位置付け、自分が持っているものとは異なる属性を 持っているその仲間を無条件で受け入れる寛容性が必須のものになる。 国是であるビンネカトゥンガルイカとは、そのインドネシアの国家的宿命を指しているの だ。文化・種族・社会階層などの多様な属性を持つ国民がインドネシアの国法の下に共通 の権利と義務を与えられて公民という単一の層を形成している状態を語っている言葉がビ ンネカトゥンガルイカなのである。属性の異なる社会集団が協調的に国家を形成するとい う理想を唱えるスローガンなのでなく、インドネシア共和国の公民がすなわちビンネカト ゥンガルイカであるということなのだ。だからそれの日本語訳として掲げられている「多 様性の中の統一」という文句はこのインドネシアの公民という観念に結びつかないのであ る。 インドネシアの公民教育は世界中のプルーラリズム国家と同様に、寛容性を生徒の精神の 基盤に涵養する教育が通奏低音として鳴り続けなければならない。そのために教員が自ら 寛容的な人間になることが前提条件となる。果たしてインドネシアの公教育に携わってい る教員たちは既にその条件を満たしているだろうか? インドネシア大学哲学科教官ロッキー・グルンは「warga negara(国民)とwarga(社会 構成員)を区別できない教員が大勢いる。」と述べている。ある個人が自分の属性に従っ て従属するコミュニティがその個人にとっての社会であるとするなら、国家と社会の弁別 ができない者にはインドネシアという国家の姿が見えていない。かれが国と思っているの は国家が持っているプルーラルな社会のひとつでしかないのだ。かれの脳にはプルーラル なインドネシアというイメージが存在していない。 シティ・ムスダ・ムリア博士は「インドネシアのプルーラリティとプルーラリズムの理解 が不足している。」と語る。パラマディナ大学がジャカルタで開催した公民教育カリキュ ラムと教員研修についてのセミナーで、宗教というものに関する教員の理解が極めて形式 的なものでしかない実態が明らかになった。 教員はたいてい、インドネシアには宗教が5つあってその中の最大のものがイスラム教だ ということを知っている。その知識は、インドネシアは5つの宗教を認めているという、 1978年11月18日付けと1990年7月25日付けの内務大臣回状の内容をそっく り引き写したものだ。 儒教に関しては、宗教の教育と政府の宗教教育に関する2007年政令第55号が出され たことによって宗教として認められたと教員たちは言う。ところが、教員たちはインドネ シアの地場に興った宗教について何も知らない。民間団体「宗教と平和のインドネシア会 議」の調査によれば、インドネシアのローカル宗教は2百を超えており、1千万人超の国 民がそれを信仰している。それらが現実に存在していることに教員は関心を払わない。教 員がその事実を認識するためには政府がそれらをすべて公認しなければならないのだろう か、とムスダは首をかしげる。 宗教冒涜に関する1965年法律第1号の再審請求を憲法裁判所が2010年4月に却下 した。その際に表明された判事団の見解の中に「国家が宗教を認めるとか認めないという 行為は違憲である」という言明があることを忘れてはならないとムスダは警告している。 [ 続く ]