「公民教育(後)」(2025年08月17日) インドネシアのプルーラリティとプルーラリズムへの、公民教育を担当する教員の理解は まだまだお粗末だとムスダはコメントする。教員は違いの存在を認識しており、互いに尊 重し合うことが必要だと教えている。しかし生徒がその違いにエンパシーを抱くようにす るためにその違いを社会資本にまで織り上げる努力はなされていない。その努力が公民と しての国民が築く社会に調和をもたらすことになるのだ。 国民の権利に関する無知の結果、悲しむべきできごとがたくさん起こっている。たとえば 国の治安を守るべき公安職員さえもがお粗末な理解しか持っていない。あるとき、ひとり の警察官がムスダに尋ねた。「あなたはムスリマだというのに、どうしてアッマディヤの 人間を擁護するんですか?」そのとき、わたしはその警察官にこう答えました、とムスダ は回顧する。 「公安職員であるあなたは宗教・信条・種族などといった属性を見て対応を区別するので なく、すべての国民を保護しなければならないのです。国民であるという点においてかれ らは国から保護を受ける権利を一様に持っているのだから。」 ロッキー・グルンは公民教育担当教員の責務をこう語った。国民に教えるべきものは罪や 善徳でなくて国民としての権利と義務だ。正しい宗教実践は宗教教義の問題であって、憲 法はそんな問題に関りを持たない。国が国民を保護育成する立場にあるとはいえ、個々の 国民が行う宗教信仰に口をさしはさむことはしない。インドネシア共和国は宗教国家でな くて世俗国家なのである。 公共生活における宗教は国民の権利だ。国はその信仰の内容に関して正誤を調べたり、深 浅を評価したりするようなことをしない。国家にとっては、正統な信仰をしている国民も いなければ、異端な信仰をしている国民もいない。国家にとっての国民は順法的であるか 法を犯す者であるかという違いだけだ。 ところが昨今、国はその原理にためらいを見せ始めている。この国が建国されたのは国民 を一人残らず保護し繁栄させるためだ。国はその原理に基づいて国内に正義を確立させな ければならない。 ロッキーが語ったその面で、公民教育はたいへん重要なポジションに置かれている。宗教 信仰に関連して国民としての権利を侵されている者を保護する義務が国の側にある。とこ ろが、宗教の正統異端問題に関連して国内に発生している迫害事件や暴力事件に、被害者 国民を保護するべき国が姿を見せないことがしばしば起こっている。 憲法で保証されている信仰の自由への違反が2010年に286件発生したことをスタラ 研究院は記録している。そしてそのうちの103件に国家運営者である行政担当者が行為 者として関わっていると同研究院の上級調査員は述べている。 人類学者で神学者でもあるファルシジャナ・リサコッタ博士は、国家の独立時に盛り込ま れた宥和と寛容のコンセプトを実生活におけるひとつの自然な規範として社会化しなけれ ばならないと呼びかけている。 「国にそれを行わせようとすると、実生活における規範にならないでイデオロギーになっ てしまう。融和と寛容を国民に命じる法律が作られれば、実生活内で行われている多様性 を狭める結果をもたらすだろう。 文化面から見て、宗教は寛容的な人間のあり方をその教義の中に理想の教えとして用意し ている。その教育を学校に任せることができないのであれば、子供のイマジネーションの 中に寛容という資質を築くことは家庭での教育がカギを握ることになる。ただし、本人の 内面に培われる寛容性との交渉は生涯続くことになる。 イマジネーションの中に寛容という資質が築かれなかった子供でも、大人になってから寛 容性に関わる体験を持つ可能性はある。その子が自分の内面で寛容性のコンセプトと実践 を自分に問う機会が起きるとき、寛容を実行することが起こり得るのだ。 社会の中で自分と異なる人間との共生を持続的に行うことは、その個人のさまざまな体験 の中に織り込まれた寛容性という大きな絵柄に対して自分自身をオープンにする強い必要 性をもたらすものだからだ。」 リサコッタ博士はそう語っている。[ 完 ]