「印尼華人差別(5)」(2025年08月16日) 一方、華人プラナカンを外国人と見なす観念は何を根拠にしているのだろうか?国籍の概 念は18世紀ごろに西洋世界で構築され始めたものであり、そのころより前のヌサンタラ には外国籍者という概念が存在していなかったはずだ。多分そのころあったのは邦人・異 邦人という対立概念だろう。 であるなら、たとえばバリ人にとってはジャワ人もムラユ人も華人も異邦人という同一レ ベルの対立概念に置かれていて、華人だけを特に異民族と見なしたり扱うような人間観に なっていなかったと考える方が妥当ではあるまいか。そこに置かれたのは異文化という基 準だったと思われるものの、フル異文化人は父親だけなのであり、地元の女性を妻にして 作ったその子供はハーフ異文化人ということにならないだろうか。 ジャワ人移住者とバリ人の間に生まれた子供がバリ文化の環境の中で成長するときにバリ 社会が仲間として遇したのであれば、華人移住者とバリ人を両親に持った子供も同じ扱い を受けた可能性が考えられる。なぜなら、その子の母親の家族にとってその子は孫あるい は甥姪という特別な人間なのであり、母親の社会交際の中においてもその女性の子供とし て扱われるのが自然だったはずだからだ。ヌサンタラという小宇宙の中で、ヌサンタラに 生まれた華人プラナカンを外国人にしたのはオランダ人だったのだ。 現代人の認識できる歴史がヌサンタラで始まったころ、この地域のあちこちでは既に人間 の暮らしが営まれていた。西暦紀元3百年代にカリマンタン島東部のマハカム河にインド ネシア最古の王国であるクタイ王国が興った。それより少し遅れて西ジャワのチタルム河 にタルマヌガラ王国ができ、その数百年後にスマトラ島でスリウィジャヤ王国が発足した。 しかし西暦紀元の初めごろに西ジャワのスンダ海峡にあるラダ湾一帯にサラカナガラ王国 が作られていたという説もある。 そのころ原始的な生活をしていたヌサンタラのプリブミ原住民社会にインドからやってき た王族貴族と従者たちが入り込み、その社会の長老や指導者を従えてプリブミ社会を自分 の王国にしたのがそれら古代王国の発端だったような印象をわたし個人は抱いている。 さて、華人はいつごろからヌサンタラにやってきていたのだろうか?それに関しては定説 がない。漢代(西暦前206-後220)に中国で作られた物品がバンテン・サンバス・ インドラギリで発掘されていて、かなり古い時代からやって来た可能性が考えられている。 ただしそれは可能性であって、華人がバンテン・サンバス・インドラギリに自ら持ってき たのかどうかは判明していない。 しかし、もしもやってきていたとすれば帆船による航海が用いられたのだろうから、風向 きの関係で一定期間ヌサンタラに住むことが起こったと考えられる。その場合に原住民の 居住エリアの中に住んだ可能性は高かっただろうか低かっただろうか? しかし華人のヌサンタラへの移住の開始時期が本当にそんなころだったのかという質問に、 別の視点から回答する有識者もある。プリブミあるいはブミプトラと呼ばれているヌサン タラ諸地域の原住民も元をただせば移住者だった。 モンゴル系と呼ばれている人間の祖先が長い期間をかけてカンボジャ・ベトナム・ミャン マ・フィリピン・インドネシアに散らばった。中国大陸に住んでいた古代人もモンゴル系 ではなかったか? つまりそこにあるのは人種という問題から離れて、先住者の目から見た新来の移住者と自 分という関係でしかないと言えるだろう。そこに先住権という観念が意味を持つことにな る。先住者は誰だって自分の先住権を侵されることを嫌がるものだろうが、嫌がり方には 強弱があるものだ。ギブアンドテイクが成り立つなら先住者と新来者は共存できるはずで あり、奪い合いをするよりも共生する方が双方にメリットを生んだと推測される。 ヌサンタラに何度も移住者の波が押し寄せたとき、たくさんの場所には先にやって来た先 住者がいた。もちろん後から来た移住者によって先住者がその土地から追い出されたケー スも起こっているとはいえ、どちらかと言うと先住者が後続の移住者を受け入れて融合し たケースの方がはるかに多かったという説も語られている。[ 続く ]