「印尼華人差別(6)」(2025年08月17日)

歴史が明らかな時代については、5世紀に法顕のタルマヌガラ王国訪問が文書記録として
残されており、それ以前の4世紀ごろには華人のヌサンタラへの航海が始まっていたと見
られている。スリウィジャヤ王国は中国とも通商を行っていたから、義浄という名の一個
人とは無関係に、華人がスマトラ島に居住していたことが推測される。

だがそんな時代に華人男性ばかりの小集団がやってきて暫定的あるいは恒久的な居住を行
ったのであれば、プリブミ女性との性生活が必然性を持ったことは想像に余りあるとわた
しは考える。

プリブミ社会がそれを禁止すれば、売春システムがない土地では外来者がレープ事件を起
こすだろう。事件を起こさせて処刑するのであれば、外来者を受け入れるふりをせず、最
初から戦闘が行われて外来者は追い払われているはずではないだろうか。

もしもプリブミ社会が友好的に外来者を受け入れたにもかかわらずレープ事件が起こるの
であれば、外来者をプリブミ社会が婿として受け入れるほうが社会の安寧と秩序が保たれ
るのは目に見えている。

その結果、外来の異民族と現地のプリブミ女性の間に混血の子孫ができる。ところが、現
地女性との間に生まれたその子孫が現代インドネシアに存在しているかどうかということ
になると、これはまったくの闇の中の話になり、光明は見えてこない。


現代のインドネシア共和国において華人プラナカン国民に関するトピックに登場するのは、
せいぜい古くて西洋人のアジア進出が始まる直前ごろ以降にヌサンタラにやってきた華人
の子孫たちがもっぱらなのである。華人のヌサンタラ移住のピークは19世紀から20世
紀初期にかけてのオランダ植民地時代真っ盛りのころだった。中国大陸の政治と治安の混
乱、そしてオランダ領東インドでの商品作物生産や鉱物採掘のための労働力需要が大勢の
華人に南洋へ向かう決意を促した。

14〜15世紀より前にヌサンタラに来航した華人がヌサンタラに作った子孫たちはいっ
たいどこへ消えてしまったのだろうか?そのクロニクルを見るための視点を特定の民族種
族の血筋に置いても何も得られないのかもしれない。

中央アジアなど一部の地域に見られるように、東西南北からさまざまな人種が往来した地
域の原住民にとって人類学的な血統が社会的にどれほどの意味合いを持っているのかとい
うポイントにその答えが見つかるような気がわたしにはするのである。そんな社会に、祖
先の血統が何であるのかということで社会構成員の間にヒエラルキーあるいは深刻な差別
が発生することがはたして起こり得ただろうか?

というのも、そんな地域の地元民には血統が多重的に積層している可能性が推測されるか
らだ。その地域の原住民はあらゆる人類の子共として生まれたのである。そもそも多様な
人種の血筋が混在している人間を特定の人種として区別するような無意味なことをいった
い誰がするだろうか?


異民族は遠い昔からヌサンタラのあちこちの町にやってきて、原住民社会の中でプリブミ
に混じって暮らしていた。そのころ、ヌサンタラの諸種族と外来者たちの間で人種差別的
な問題は何も起こっていなかった。同じ社会の中で宥和的な交流がなされ、異民族が持っ
てきたさまざまな文化と産品をヌサンタラのプリブミが摂取した。

華人もその異民族の中の有力なひとつだった。中華文化が持っている多彩な技術をプリブ
ミが学んで使うことが多方面にわたって行われてきた。プリブミの知らなかったさまざま
な料理方法がそうやってインドネシア文化の中に吸収された。

西洋人がヌサンタラにやってくるまで、プリブミと新客華人やその子孫の間には集団レベ
ルでの敵対や反目など起こっていなかった。現在のようなネガティブな面が社会に表れる
ようになったのは、西洋人がやってきてから始まったことだ。そもそもチナという名称自
体からして西洋人が持ち込んできたものだ、とインドネシア科学院歴史学者アスヴィ・ワ
ルマン・アダム博士は書いている。[ 続く ]