「印尼華人差別(8)」(2025年08月19日) 店を構えるようになった頭家はたいていが身一つで移住してきた新客一世であり、最初は 雑貨品を担いでプリブミの村々をめぐる巡回販売人になり、小金が貯まるとプリブミクー リーを雇って商品を担がせ、自分も一緒に歩いて商売した。そのくらいになってくると街 中に店を開く夢が大きく膨らみ、ほどなく巡回商売をやめて小さな店を持つのが普通だっ た。それがかれらにとっての出世というものだったのだ。かれらが話すプリブミの言語は ほとんど片言で、たいてい福建語や客家語がすぐに口をついて出た。 ワルンチナはプリブミのなじみ客にツケで品物を販売したから、プリブミもワルンチナを 重宝した。そのためかどうか、プリブミのほうが華人頭家に愛想を使った。カムシア(感 謝)はすぐに覚えたし、金額を言う際の福建語表現もプリブミ客のほうが頭家に合わせて 使うケースが多かった。おかげでブタウィ人の金額表現は福建語で彩られてしまった。 拙著「福建語好きのブタウィ人(全8回)」はこちらをどうぞ。 https://indojoho.ciao.jp/2025/0114_1.htm ↓ https://indojoho.ciao.jp/2025/0123_1.htm オランダ人はその植民地体制の中で、三つの人種カテゴリーを巧みに操作した。人口的に 大変少数のヨーロッパ人が膨大な数のインランダーを支配するために必要な手足の役割を 東洋人在留者に持たせたという論が現代インドネシアでは定説になっている。東洋人在留 者の中で人口最大の華人がその適役にされた。 華人はオランダ人の支配下にありながらヨーロッパ人の利益を現場で実現させる代理人に なり、オランダ人の利益のためにインランダーを搾取する役割を演じた。オランダ人が身 上にしていたdivide et imperaストラテジーに華人がぴったりはめ込まれたのだ。インラ ンダーと華人の間に反目と敵対の溝を作らせ、その両方にそれぞれ異なる餌を与えてオラ ンダの支配の深化と永続を図ったのである。華人は塩の専売、質屋営業、徴税請負などの 独占権を与えられて富の蓄積に精を出すようになった。そのようなあり方で華人はオラン ダ東インドの経済と商業の大部分を手中に収めた。 だがオランダ人が華人を優遇したわけでは決してない。東洋人在留者に対して土地や空間 に関わる権利は一切与えられず、居留地制度と通行証制度が定められてビジネス活動に大 きな障害を受けた。東洋人在留者の中で人口最大の華人が外見的に最大の被害者になった とも言える。なにしろ華人の経済活動が東インドの中で最大のスケールになっていたのだ から。居留地制度と通行証制度はこちらをどうぞ。 http://omdoyok.web.fc2.com/Kawan/Kawan-NishiShourou/Kawan-99_KyoryuchiSeido.pdf 税制も東洋人在留者が狙い撃ちされた。農民でないプリブミは所得税の納税を義務付けら れ、それは東洋人在留者にも適用された。しかしプリブミのすべてが家屋・馬・馬車・乗 り物・家庭用機器などにかけられる財産税を免除されていたにもかかわらず、東洋人在留 者にそれを免除してやるいわれはオランダ人になかった。 とはいえ、華人とプリブミ支配層との癒着関係も植民地時代から始まっており、プリブミ 社会が華人に抱く反感が湧き上がってくる源泉のひとつになっていた。オランダ人はその 現象について「それぞれのブパティは自分のチナ人を持っている」という言い方で表現し た。そこではビジネス活動への便宜とその見返りの金が交換されるのである。 それ以来、その協力関係のパターンは途絶えたことがなく、オルバ期には露骨に目立つも のになったが、顕著に目立たなくなった時期でも決して消滅したわけではない。オルバ期 の癒着は官僚機構の中の高官職者たちと実業界の間で行われた。実業界のマジョリティを 華人系が占めていたから、華人プラナカン層が腐敗行為への批判から無縁になるはずもな かった。[ 続く ]