「印尼華人差別(9)」(2025年08月20日)

居留地制度と通行証制度が東洋人在留者の動きを束縛するために設けられたのは、華人を
都市部での経済活動に縛り付けて村落部のプリブミとの接触をミニマイズするのが目的で
あり、オランダ人が仕組んだ植民地世界の図式を維持保全させるのが究極目標だったとい
う解説がある。

プリブミ社会は昔から続いている農業社会のまま維持させ、小規模な経済生活で十分生き
ていけるようにし、愚民の世界を継続させることがオランダの国益に永続性を持たせるこ
とになるというコンセプトがそれだ。それをオランダ人が強制すると寝た子を起こすこと
になるから、そんな要素がプリブミ社会に入らないようにするには華人を村落部のプリブ
ミとあまり接触させないことにかぎる。

華人とプリブミが団結してオランダに歯向かってくれば、強力な敵ができる。そんな事態
を防ぐために、オランダ植民地主義者はあの手この手を使った。そんな歴史を乗り越えて、
オランダ人がいなくなったあと華人とプリブミ間の関係を改善させるためには、時間と努
力が費やされなければならないだろう。

オランダ植民地時代に、プリブミ社会にはコイン生活が可能な経済体制が敷かれ、紙幣で
の経済生活は都市部でのものにされた。村落部のプリブミが営んでいるライフスタイルに
華人を混じりこませたならば、オランダの国策コンセプトは徐々に崩れていった可能性が
高い。オランダの東インド植民地行政の中でプリブミと華人の分離を図った政策の筆頭に
挙げられるのが居留地制度だ。それに通行証制度をかみ合わせることで、プリブミと華人
の接触はますます起こりにくいものになった。

1828年に東インド政庁が出した法令は、ひとつの集落に華人家庭が25戸あれば華人
を長にする華人部落を作ることを命じていた。バタヴィアレシデンの書いた報告書によれ
ば、グロドッのプチナンのほかにプンジャリガン・マンガブサール・タナアバン・パサル
バル・パサルスネンにバタヴィアの華人居住地区があった。

バタヴィアの他にも、スマランの東側に連なっているルンバン・トゥバン・ラスムで華人
部落の形成が励行された。それまで各個人にとって都合の良い場所に散らばって住んでい
た華人系住民は町中に定められたプチナン地区に集められて、行政からの強い監視と監督
を受けたのである。


華人に行動の自由を与えず、厳しい監督下に置く政策はVOC時代から既に行われていた。
VOCにとってはビジネス競争という要素がそこに加わっていたのである。17世紀以来
のVOC時代と19世紀に始まる植民地時代との大きな違いがそれだった。VOCがイン
ドネシアで行った植民地統治は会社活動という本質から離れられないものだったのだ。だ
から国家が行った植民地統治との質的な違いがその内容に影を落とすことは避けられなか
った。「350年間のオランダ植民地支配」というキャッチフレーズがいかに歴史を見る
眼を曇らせているかがそのポイントから見えて来るはずだ。誇大申告を行う被害者の憤懣
をわれわえはその裏側に感じることになる。

VOCは1764年にプリアガン地方で華人の居住を禁止した。プリブミの農園作物栽培
が発展し始めたのがその時期であり、VOCはそのビジネスを完全なコントロール下に置
くために、邪魔になる華人を排除した。華人をそのビジネスに自由に関わらせれば、VO
Cはどこで足をすくわれるかわかったものでない。完全独占の実現に華人は害をもたらす
だろう。その政策はジャワ島イギリス統治時代に廃止されたが、ジャワ島を返還されたオ
ランダ人は1820年にその政策を再開している。

また東インド政庁は1879年に華人の行う農業を禁止した。この政策も町中のプチナン
に集まって住む華人が持つオリエンテーションを商業に集中させる結果をもたらした。

プチナンに住む華人の経済活動は資本主義への傾斜を深め、西洋世界に起こった工業化の
進展の波がオランダ東インドに押し寄せてきたとき、それを受け入れてやりこなすのに最
適な立場にいたのが華人という状況を結果的に作り出すことになった。飲食品・ジャムゥ
・家庭用品・建築資材・紡績・バティッ・クレテッ・運輸・・・・[ 続く ]