「ソロのレールバス(終)」(2025年08月24日) スラマッリヤディ通りの南脇を通っている線路はオランダ時代に敷かれたものだ。プルウ ォサリからファステンブルフ要塞を経由してソロコタ駅とは逆方向の、ソロバラパン駅東 隣にあるソロジュブルスSolo Jebres駅に至るルートを1892年から馬車トラムが運行 しはじめた。また、プルウォサリから西方のボヨラリまで馬車トラムの運行が延長された。 位置関係がややこしいから整理すると、ヨグヤカルタからソロに向かう鉄道はソロ中央駅 であるソロバラパン駅の西隣にあるプルウォサリ駅を通る。ソロバラパン駅からはスマラ ンに向けて北上する路線と、東方のマディウンに向けて進む路線に分岐する。そのスマラ ン向けの線路がインドネシア鉄道史の端緒となったスマラン〜タングン区間を擁する歴史 的なルートなのである。 一方、東方に向かう路線の東隣の駅がソロジュブルス駅だ。つまり馬車トラムは、その当 時プルウォサリヴェフPoerwosariwegと呼ばれていた今のスラマッリヤディ通りを通って プルウォサリとジュブルスを結ぶ、ソロ市内の簡易マス交通機関の役割を果たしていたと 言えるように思われる。 馬車トラムの商業運行を行ったのはSolosche Tramweg Maatschappijという名称の、18 90年に設立された会社で、この会社は創業三年後にもう馬に見切りをつけて蒸気機関車 を走らせる方針を立て、1895年からその準備を開始した。 1906年、ソロトラム会社は最終的に、インドネシアの鉄道史をスタートさせた民間資 本の東インド鉄道会社Nederlandsch-Indische Spoorweg Maatschappij(NIS)と共同事業契 約を交わし、1908年5月1日から全面的に蒸気機関車による運行を開始した。蒸気車 への切り替えに伴ってルートの変更が行われ、蒸気車はパサルグデに停車するようになっ た。その後1911年にソロトラム会社は東インド鉄道会社に吸収合併された。 1920年8月9日にソロ〜ウォノギリ〜カカップ鉄道敷設許可が下りた。ソロコタ駅と 南方のウォノギリをつなぐ線路敷設が完了して運行が開始されたのが1922年4月1日。 ソロコタ駅はこの路線と共に誕生したわけで、プルウォサリヴェフのトラム運行時代には まだソロコタ駅が存在していなかった。この路線は更に南へと延長されて1923年10 月1日にバトゥレッノに到達した。 この新路線にNISが投入したのは1899〜1902年にドイツで製造されたC17型機関 車で、5台がその路線を運行した。NISが輸入したそれらの機関車は最初、ヨグヤカルタ 〜マグラン〜スチャン57キロ区間を走っていたが、1914年にソロ〜ボヨラリ27キ ロ区間に持ち場がシフトされ、更にソロコタ〜ウォノギリ〜バトゥレッノの新設区間に移 されたのだ。バトゥレッノからソロへの石灰岩輸送は週三回行われ、機関車は10両を越 える貨車をけん引して往復した。 オランダ時代から始まった石灰岩輸送はインドネシア共和国独立後も続けられた。ソロ一 円の製糖工場が砂糖生産を行っているかぎり、石灰岩の需要がなくなることはない。同時 に南部地方から鉄道を利用する乗客も数多く、バトゥレッノ〜ソロコタ間の運行はたいへ んな賑わいを示した。 1965年には輸送される石灰岩の量と乗客数が鉄道会社手持ちの貨車客車の収容能力を 上回り、運びきれずに積み残しが発生する現象が起こったそうだ。1970年代に入って も、道路運送がまだ未発達な状況下にこの鉄道は地元民にとって貴重な交通手段になって いて、商人や学校生徒が日々の活動の中での移動の足として頼みの綱にしていた。 バトゥレッノ駅に集まって来る石灰岩と乗客が列車に乗せ切れない量になったと判断した 駅長は石灰岩を運ぶために臨時列車を仕立てるよう、ヨグヤカルタの運行センターに要請 しなければならなかった。そんなできごとは頻繁に起こっていたと当時の駅長は述懐して いる。[ 完 ]