「閉じなかったループ(後)」(2025年08月26日) インドネシアを占領した日本軍は1943年にポノロゴ〜バドゥガンに敷かれていた線路 を撤去して運び去った。インドネシア人はそれが運ばれた先をバンテンのサクティ〜バユ 路線建設、スマトラ島プカンバル〜ムアロ路線建設、あるいは泰緬鉄道建設、そうでなけ れば日本の製鉄工場ではないかと推察している。 一方、ポノロゴ〜スラフン路線は1983年に列車運行がストップし、マディウン〜ポノ ロゴ間もその翌年に運行が行われなくなった。 線路が日本軍に奪い去られてしまったポノロゴ〜バドゥガン路線の終着駅、バドゥガン駅 舎は今や跡形もなくなっている。地元の老人のひとりは駅舎がまだ立っていた時代を追想 して取材にやって来たコンパス紙記者に物語った。かれがまだ5歳のとき、駅舎の屋根は 既になくなっており、線路の跡は給水タンクのある少し北寄りに向かっていたそうだ。 一方、インドネシア国鉄側の事情で列車運行がなされなくなったポノロゴ〜スラフン路線 では、線路は途切れ途切れに目にすることができ、また廃駅もいくつか見つけることがで きた。しかし線路が通っていたはずの場所に建物や家屋が建っている光景も数多く見受け られた。 ジュティス駅は商店にはさまれて、使われていない建物になっている。バロン駅は駅舎自 体が肉屋の店舗になっていた。今の店構えは言うまでもなく通りの方に向くのが当然であ り、昔の線路側のスペースは閉鎖されている。 線路跡をたどった取材班がスラフン地区に近付いてからは、線路は丘陵と水田の中を上り 気味に進んだ。そして街中に入ってからパサルに突き当たる形で終わった。そこがかつて のスラフン駅だったのだ。スラフン駅舎は今もインドネシア国鉄が建物の維持保全を行っ ていて、往年の姿を保っている。この駅舎のオープンは1922年であり、既に百年を超 えている。 スラフン住民のひとりスカミさんは、1983年に列車運行が停止するまでその駅舎から 汽車に乗ってポノロゴのパサルルギで商売するための商品を毎日運んでいたとインタビュ ーした記者に物語った。列車運行は一日二便あったそうだ。この路線の近辺にあるルジョ アグン、カニゴロ、パゴタンなどの製糖工場で生産される砂糖の輸送にこの路線が大活躍 したことは言うまでもない。 マディウンから南に向かう鉄道の火が消えたために、この地方で鉄道の息吹を感じる場所 はマディウンしかなくなった。マディウンには、オランダ時代に蒸気機関車の整備と修理 を行うBalai Yasaがあった。オランダ時代の国有鉄道会社SSが1981年にそのバライヤ サをインドネシア政府に譲渡したので、政府はバライヤサを国有会社PT Industri Kereta Api(通称INKA)と命名してインドネシア国鉄とは別の会社にした。 インカ社は鉄道車両の整備と修理だけでなく車両製造をも開始し、機関車や電車を含む多 数の鉄道車両を生産してきた。ジャカルタ近郊電車路線で日本製中古電車が使われるよう になる前は、インカ製の電車が走っていた。その当時のインカ製電車は側面に通風のため のルーバーが付いており、時々目にする日本製電車との見分け方についてルーバーのない のが日本製だという話をインドネシア人から聞いた記憶がある。 また、マディウンにはAkademi Perkeretaapian Indonesia(インドネシア鉄道アカデミー) があって、インドネシアの鉄道人を育成している。2014年にオープンしたこのアカデ ミーは初期のころに、ジャカルタの地下鉄会社であるPT MRT Jakartaが全卒業生を入社さ せたという話も流れている。[ 完 ]