「JKT−BDGエクスプレス(1)」(2025年08月27日)

インドネシアの鉄道史において、最初に作られたジャカルタ〜バンドゥン間を結ぶルート
はボゴール〜スカブミ〜チアンジュルを経由するものだった。つまり先に南に下ってから
東に進むオリエンテーションだ。

後になって、ブカシ〜カラワン経由プルワカルタ〜パダラランを通ってバンドゥンに達す
るルートが設けられ、後者の方が距離が少し短いために、まず先に東に進んでから南に下
るルートがメインになった。距離的には20キロほど差があるようだ。

今では、道路ですら後者のルートが圧倒的に有力になり、後者は全線自動車専用道が作ら
れてジャカルタからバンドゥンまで一般道に降りないまま走り通すことが可能になってい
る。前者の場合は一般道路を百キロほど、プンチャッの峠越えを交えて走らなければなら
ない。

オランダ王国政府は東インド植民地の鉄道事業を民営に委ねる方針を基本に置いて、希望
する民間資本にコンセッションを与えて事業を行わせた。しかし公益事業という性格を無
視することもできず、東インド政庁が鉄道会社を興して民間鉄道会社の手が出ない部分を
国有会社が補完することも行われた。

オランダ東インドで最初の鉄道会社である民営のオランダ東インド鉄道会社NISはまず最
初の汽車を1867年8月10日にジャワ島中部のスマラン〜タングン間で走らせた。日
本より5年早い。その路線は更にもっと南のソロとヨグヤカルタまで延長され、そのあと
NISはバタヴィア〜バイテンゾルフ線を1873年にオープンした。スマラン〜ヨグヤカ
ルタ線は経営的にあまり良い結果が得られなかったものの、バタヴィア〜バイテンゾルフ
線では大いに潤ったという話になっている。

民営鉄道会社は投資対利益を気にしていればよいだけだろうが、政府にとってそれだけで
は不十分だ。政府が設立した国有鉄道会社SSはバタヴィア〜バイテンゾルフ線を活用して
バイテンゾルフ〜チアンジュル〜バンドゥン〜タシッマラヤ〜バンジャル〜マオスという
長い路線を1882年ごろから建設し始めた。

NISがスマラン〜タングン〜ソロ〜ヨグヤカルタ路線を既に作ったために、バイテンゾル
フとヨグヤカルタを鉄道線路でつなげる構想に基づいて開始された建設工事がそれだ。SS
は1887年にチラチャップ〜ヨグヤカルタ路線を建設して列車運行を始めており、西方
のバイテンゾルフ〜バンドゥンからやってきた路線はチラチャップ〜ヨグヤカルタ線に設
けられたマオス駅で接続が行われて、バタヴィア〜ボゴール〜バンドゥン〜ヨグヤカルタ
路線が1894年に開通した。バタヴィアからバンドゥンまでであれば1884年から鉄
道で行けるようになった。


もう一方のカラワン〜プルワカルタを通るルートはどんな具合になっていたのだろうか?
バタヴィア東部鉄道会社BOSが1887年にバタヴィアからメステルコルネリス〜ブカシ
を経由してカラワンに至る63キロの鉄道事業を開始した。同社は1887年にバタヴィ
ア〜メステルコルネリス〜ブカシ路線を開通させ、1890年に路線はチカランまで延び、
1891年にはクドゥングデ、そして1898年にカラワンに達したのである。カラワン
駅の稼働開始は1898年3月19日だった。

一方その間、カラワンからバンドゥンに路線を延長してプリアンガー線につなぐように求
める声が強まったことから、それを実現させるべく政庁がSSにBOSを1898年に買収さ
せたとイ_ア語ウィキペディアは述べている。買収は1898年8月4日に行われた。

買収の背景がどうであれ、SSはカラワンからプルワカルタ経由パダラランに線路を延長し
てチアンジュル方面とバンドゥンを結ぶプリアンガー線にその路線をつないだ。その接続
が完了したのは1906年だった。北回りの列車がバンドゥン駅に到着したのは、プリア
ンガー線から22年後のできごとだったわけだ。[ 続く ]