「印尼華人差別(終)」(2025年08月30日)

美麗的梭羅河 (Bengawan Solo)

美麗的梭羅河,我為イ尓唱歌!イ尓的光栄歴史,我永遠記在心上。
旱季来臨,イ尓軽軽流[海−毎+尚],雨季時波波涛滾滾,イ尓流向遠方。
イ尓的泉源来自梭羅,萬重山送イ尓一路前往,滾滾的波涛濤流向遠方,一直流入海洋。
イ尓的歴史就是一艘船,商人們乗船遠航在美麗的河上。
イ尓的泉源来自梭羅,萬重山送イ尓一路前往,滾滾的波涛流向遠方,一直流入海洋。
美麗的梭羅河,我為◇唱歌!イ尓的光栄歴史,我永遠記在心上。

注:[イ尓]は表示してくれないために合成した文字であり、中国文字ではありません。

中国でも日本でも同じように愛されている歌曲のひとつにイスマイル・マルズキ作のイン
ドネシアプサカがある。こちらの歌詞の中国語版は下の通り。
印尼遺跡(故郷) (Indonesia Pusaka)

印度尼西亜是我們的故郷
多麼富饒 多麼美麗
印度尼西亜我們全民族
永遠熱愛 永遠尊敬イ尓

我們生在イ尓的土地上
我成長在イ尓的懷抱裡
縱然到那 年老瞑目的時候
我也永遠跟イ尓不分離

この歌詞が原意にきわめて近いものになっていることにわたしは驚いた。ここまで原意に
即して訳詞が書けるのは重言語者であり、華人プラナカンならそのレベルの言語感覚を持
っていてもおかしくないような気がしたのである。

さて、インドネシア語歌詞の原意が祖国の山河に対する所有感覚を満々と示しているのに
対して、中国語歌詞の方はその点に開きがあることに気付いてわたしは意外に思った。こ
れはただの翻訳ではなさそうだ。
インドネシア人が持っている自我と一体化した祖国、つまり自分自身が存在する場という
意識でなく、自我との間に距離を有する対自存在として捉えられた故郷という感覚が中国
語訳詞に漂っている印象なのだ。華人プラナカンが持っている精神性自体がきっとそうな
っているのだろうと思わせる歌詞作りではあるまいか。
下の部分を対比してみれば、わたしの感じたものが何だったかをたとえ感覚的であれ、理
解していただけるのではないかと思う。
我們生在イ尓的土地上 - Di sana tempat lahir beta
我成長在イ尓的懷抱裡 - Dibuai dibesarkan bunda
我也永遠跟イ尓不分離 - Tempat akhir menutup mata

言うまでもなく中国語歌詞の「イ尓」の意味内容次第になるわけだが、それが単なる呼びか
けに過ぎなかったとしても、対自存在のニュアンスが消滅するわけではないだろう。
もしもわたしの想像が当たっているのであれば、それは長い長い歴史の中で翻弄され、長
い長い時間をかけて心の奥底に刻み込まれた、華人プラナカンの哀しみを象徴する涙の結
晶と言うことができるのかもしれない。[ 完 ]