「印尼華人の受難(2)」(2025年09月02日) 1965年よりずっと以前の1949年に毛沢東の中華人民共和国が誕生し、中国人が国 家として持つ原理は共産主義になった。インドネシアに何百万人もいる華人プラナカンは 共産主義国家を祖国にしているとインドネシア人が見なす思考傾向が当然のように興った。 現実にインドネシア共産党員になる華人プラナカンが大勢おり、かれらは共産主義を振興 させようとする何らかの活動に関りを持った。 宗教を人間の生き方の根本原理に置いたインドネシア共和国は、宗教を認めない現代共産 主義と基本的に相容れないものだった。インドネシアの国家と民族を成り立たせる根本原 理が草の根庶民に共産主義への敵対感情を醸成するようになる。その一方で、共産主義は 貧困に覆われた国民生活を改善することができるというプロパガンダが貧困国民を共産党 に引き寄せた。 全国民に敬愛される建国の父スカルノ大統領は共産主義を非合法にしなかった。世界の支 配民族に挑戦する共産主義国が世界を二分し始めているのだ。スカルノも世界の支配民族 に反抗する強固な意志を持っていたから、かれがインドネシア共産党を非合法にするわけ がない。綱渡り型の国際外交で漁夫の利を得るために、インドネシア共産党はスカルノに とって捨てがたいコマだったのである。 スカルノ本人の精神はインドネシアの国是を絵に描いたようなものであり、現代共産主義 のドグマはかれの許容できる限界を超えていた。かれにとっての共産主義とは原始共産主 義であり、田夫野人が持つ人間臭さのふんぷんと漂うものだった。だからいつかは現代共 産主義と共産党をインドネシアの地から一掃しなければならないと考えていた。かれにと ってインドネシア共産党はその時代のかれが行うスカルノ政治を助けるコマとして重宝が られていたにすぎない。スカルノ自身がインドネシア共産党議長のアイディッに「いつか は手を切ることになる」と語っている。 ともあれ、スカルノレジームの晩年にインドネシア共産党が非共産主義国家の中で最大の 勢力を擁する政党になっていたのも事実だ。アンチ共産主義の旗頭でナショナリズムをイ デオロギー基盤に据えた国軍は政治の舞台で押しまくられていた。 どの政治勢力も同じようにスカルノ支持を表明していたとはいえ、共産党と国軍の間の対 立は先鋭化の度を深め、中国からの人民軍創設の働きかけがある、国軍がスカルノを失脚 させて大統領を入れ替える謀略を行っている、などといった応酬がからんで国内政治情勢 は末期的症状を呈しはじめた。スカルノを消すためのシナリオは日一日とその機を熟して いった。 1965年9月30日夜半にいくつかの国軍部隊が動きを始め、ターゲットにされた将軍 や要人の捕縛が開始された。一部はその自宅で射殺され、捕らえられたターゲットも最終 的に殺害された。クーデター実行部隊はジャカルタのラジオ局と電話局を占拠したが、ス ハルト少将の指揮する部隊に降伏している。たいした戦闘も起こらず、スハルト少将は短 期間にクーデターを鎮圧してしまった。 ジャカルタでのクーデターでは、その夜に動いたのは軍人ばかりで、共産党員が加わって いたような話は見つからない。最終的に、クーデターを行った軍人たちは共産主義に染ま った者たちだったという歴史解説によってその疑問が締めくくられた。[ 続く ]