「JKT−BDGエクスプレス(9)」(2025年09月05日)

1920年代に開始されたバンドゥン周辺地区への支線建設は、ランチャエカッ〜タンジ
ュンサリ間10.8KMとチクダパトゥ〜ダユコロッ8KM区間が1921年に完成し、ダユ
コロッ〜バンジャラン〜ソレアンもその年にできあがった。

ランチャエカッ〜タンジュンサリ線はジャテイナゴルの農園地帯を目指した路線であり、
更にチタリへと線路が延ばされた。運行開始は1921年2月13日だった。

次いでダユコロッからチパライ経由マジャラヤへの路線が1922年3月3日にオープン
した。バンドゥンからマジャラヤ行きの列車が走り、一日5便がバンドゥン〜チクダパト
ゥ〜ダユコロッ〜チパライ〜マジャラヤのルートを往復した。

ソレアン〜チウィデイ区間の開通は1924年6月17日だった。チウィデイに向かう路
線の運行は片道で1時間45分かかるチウィデイ〜ダユコロット間のみで行われ、一日6
便の列車がその区間を往復した。チウィデイ〜ダユコロット間の沿線物産は松の木・肥料
・硫黄・茶葉などがメインだったそうだ。チウィデイからバンドゥンやマジャラヤ方面へ
行くためにはダユコロッでバンドゥン〜マジャラヤ線に乗り換えなければならなかった。

路線の関連図は次のようになる。
Bandung
 ↓
Cikudapateuh - Dayeuhkolot - Banjaran - Soreang - Ciwidey
 ↓           Dayeuhkolot - Ciparay - Majalaya
 ↓
Rancaekak - Tanjungsari - Citali
 ↓
Cicalengka

その中のダユコロッ〜マジャラヤ区間とランチャエカッ〜タンジュンサリ区間は1942
年に日本軍が線路を撤去した。イ_ア語ネット情報にはチクダパトゥ〜ダユコロッ区間も
日本軍が撤去したと書いているものが見つかるのだが、ダユコロッ〜チウィデイ区間は撤
去されていないので、チクダパトゥ〜ダユコロッ区間が撤去されたとは考えにくい。


ダユコロッ〜マジャラヤ路線の線路を撤去した日本軍が、マジャラヤとチチャレンカを結
ぶ路線の建設を1942年に発案した。バンドゥンとの連絡はそのほうがはるかにシンプ
ルになる。ところがいつまでたっても着手されず、1945年6月になってやっと動きが
始まった。最初日本軍はチマヒの捕虜キャンプから大人子供の男ばかり1千人を超える収
容者をマジャラヤに連れてきて建設作業を命じた。線路敷設工事はマジャラヤでスタート
したのである。

数週間後、こんどはチチャレンカから捕虜が連れて来られて労働力が増強された。強制さ
れた作業は水田の中に盛り土をしてレールベッドを作ること。食糧が不足していて半ば飢
餓と栄養不良に陥っている捕虜に激しい肉体労働が強いられたために多数の死者が出たそ
うだ。日中の暑さときれいな飲み水の不足は、作業者にとって最悪の条件になったことだ
ろう。日本軍が行ったスマトラとジャワの死の鉄路の第三幕が小規模ながら西ジャワの山
中で行われていたのである。

1945年8月15日、マジャラヤとチチャレンカを結ぶレールベッドは完成していたに
もかかわらず、その上に線路は一本も載っていなかったそうだ。[ 続く ]