「男女平等の陥穽(前)」(2025年09月07日)

ライター: スギヤプラナタ基督教大学心理学部教官、マルガレタ・シイ・スティジャ・
ウタミ
ソース: 2002年12月16日付けコンパス紙 "Kita Kehilangan Sifat Keibuan" 

エリッヒ・フロムはその著「愛するということ」の中で、現代人は同じ人間仲間や大自然、
それどころか自分自身からさえ疎外されていることを表明した。人間は一個の商品に変え
られてしまい、それも自分自身の外に形成された市場論理に従って計算される、自己にと
って最大の利益をもたらすひとつの投資だと自分自身の「生」を感じている。生きる中で
現代人が気に掛け、そして実現させるようと努めていることがらは、正義・平等・効率・
望みの実現・歓喜・個人主義だ。

現代人は常に不安の中にいて、与えられることが生む幸福を目的にして与えること、完ぺ
きな誠実さ、他人を愛する中で自己を見失うことがない、といった母性的な諸性質を求め
ているというのに、その美しさと重要さを理解しようとしない。その結果、満たされるこ
とのない憧憬と別離の感情がアルコール中毒や薬物の常用、色情症、自殺などの出現を促
している。

フロムは1962年に、当時の西洋人の生活を批判するためにその書を著した。フロムの
見解は現在のインドネシア社会に十分当てはまるものになっているように見える。今のわ
れわれには、リーダーになる・高いIQを持つ・ライバルを倒す・好きな場所へレクレー
ションに行ける・周辺環境の利益に邪魔をされないといったクリテリアを獲得することが
成功者の条件になっている。それらが得られない者は失敗者なのだ。たとえ兄弟姉妹とと
ても仲睦まじく、結婚生活では全面的に伴侶に忠実であり、仕事に底意を持ったことなど
一度もなくても。

成功を測るそれらのクリテリアは、公的空間で活動し、IQを振りかざして競争し、リー
ダーになり、自我を前面に押し出すマスキュリン型の性質に対応している。一方、高い評
価を与えられていない、優しさ、他者や周辺環境との調和、家庭内での活動、誠実さなど
のようなクリテリアはフェミニンな性質を持つものが多い。

マスキュリンな性質は男にだけあるものでなく、またフェミニンな性質も女だけが持って
いるわけでない。しかし傾向として、女はフェミニンな性質を男よりも多量に持っており、
また男はマスキュリンな性質を女より強く持っている。現代生活においてマスキュリンで
あることにより高い評価を与えている諸価値の存在は、女性が男性に比べて低く評価され
る帰結をもたらしている。母は父よりも貢献度が低いと見なされ、男児は女児よりも幸運
だと思われているのだ。

< 女性の闘争 >
そんな状況が存在している結果、女性運動活動家たちは女のポジションを男と横並びにす
ることを目標に置いているように見える。女性の多くは自分の母親がかつて示したあり方
よりずっとマスキュリンな振舞いを身に付けている。マスキュリン性は時代の要求にフィ
ットした、メリットの大きい資質であると考えられており、その広がりはきわめてスピー
ディだ。母性的な資質はこうして置き去りにされるのである。抑圧されてきた女性の権利
を高揚させるために母という存在が持っていた清涼感が置き去りにされて、この世界は熱
っぽい場所になっている。男女同権運動に間違いがあるのだろうか?

同じ人間であるにもかかわらず性別という差異のために抑圧されていた人間を人間として
復権させる女性の闘いは既にたくさんの業績を作った。ここでわれわれは「資本主義社会
の中で平等は単に、同じ職業に就き、同じ娯楽を愉しみ、同じ情報を得、同じ感情と思考
を持つことに意味が変化した」というエリッヒ・フロムの表明をもう一度読み返す必要が
あるだろう。

そのような意味における権利の平等を女性が闘い取ろうとするとき、女性は男性の後ろに
付いてその尻尾になるというトラップに陥ってしまうことになる。結局は男性が持ってい
る諸価値を常に後追いするがために、女性が最先頭に立つ機会は訪れないのである。男性
に離されているという思いに苛まれて自己卑下に陥るトラップにはまり、女性は走り続け
なければならない。[ 続く ]