「男女平等の陥穽(後)」(2025年09月08日) 今、女性活動家の多くは男性に比べてスタートで出遅れたという意識を持っている。議員 数クオータ30パーセントということがらを思い出せばいい。政治分野ばかりか、教育、 経済、公共領域における技能に至るまで女性は遅れている。 もしも差異を受け入れる勇気を女性が持てるなら、女性に元来備わっている潜在性を発展 させることができ、その結果どちらが優でどちらが劣かというものの味方から離れて、マ スキュリン性とフェミニン性が両立併存することになるだろう。それは可能だろうか? < フェミニン性の闘い > いま、資本主義的思考パターンに影響された社会構成員の多くは単に、女性運動とは性別 が女である人間が権利を広げ、金を得、家庭の外で諸セクターに受け入れらるようにその 立場を向上させるための闘争だと見ている。その結果として男性の多くは女性運動を単に、 男性に対する女性の報復行動と見なしており、失ったり奪われたりすることを怖れる男性 の恐怖心理が女性運動にたくさんの障害をもたらしている。 女性運動が単に性別が女である人間のための闘争だと言うのは本当なのだろうか?もっと ユニバーサルなものを目指す運動には成りえないのだろうか? 日常生活の中で、意識されているかいないかはわからないものの、マスキュリン性がフェ ミニン性より高く評価されている社会の現実を女性たちが往々にして支持している姿をわ れわれは目にすることができる。シンプルな例としてマスメディアが流す宣伝広告の中に、 他の子供と競争して勝った自分の子供を母親が賞賛するシーンがしばしば登場する。自分 の子供が勇気を出して他人を助けるといったシーンではないのだ。幼児ミルクの宣伝広告 では、子供が難しい掛け算をやりこなすシーンが出て来る。子供が周辺環境に適応して社 会性を示すようなシーンなど出てこない。 母親たちはクラスのトップになった自分の子供に誇りを抱く。学業でクラスのトップにな るために子供は勉強ばかりしていて、親がしている掃除や皿洗いなど家の中の仕事を手伝 う時間などない。子供はそれをどう感じるか?家の中での仕事で果たす業績よりも公共の 場で示す業績のほうが高い値打ちを持っている。知覚インテリジェントは情緒インテリジ ェントや社会性インテリジェントより優れている。女性もマスキュリン性の支配下に置か れているのである。 社会の中で奉じられている価値観という視点に立ってフェミニン性とマスキュリン性の平 等を目指すとき、女性も容易に高い評価を得ることができるだろう。たとえ性別が異なっ ていても、われわれはみんな同じ人類なのだ。 これまで活動家たちが果たしてきた貢献に背を向けるということでなく、自分が持ってい る短所とともに長所をも理解するようにわたしはすべての女性たちに勧めたい。そうする ことで女性は社会にとっての強い自信を持つ母になり、周辺環境に不安を撒き散らすよう なことが防がれる。 女性運動は単に性別が女性である人間のための運動なのでなく、ますます置き去りにされ てやせ細っていく母性的価値を闘い取る運動なのだ。かつて母性的な運動に対して起きた 拒絶反応に関連してその言葉の解釈を修正する必要があるだろう。 かつて母性keibuanという言葉は単に「夫を支え、男性に仕える」という意味だけを持た された。しかし本質的にibu(母)とbapak(父)の資質は異なっているのであり、そのい ずれもが優劣なく有意義なものなのだ。社会の中にその両方の資質が併存することが重要 なのである。[ 完 ]