「印尼華人の受難(10)」(2025年09月10日) 1998年7月にファクトファインディングチームが行った調査から、暴動は核にされた 地区からエリアを広げながら拡大し、そしてほぼ一斉に終結したことが判明している。行 動はシステマチックになされ、投石担当・ガソリン缶運搬者・放火人・表扉の南京錠切断 係・人種差別的な言葉を叫ぶ者などが各暴動場所で同じように編成されていたそうだ。 1998年の7月中旬に出た雑誌にも同じような内容が書かれている。ダアンモゴッ通り では、たくさんの人間が数台のトラックで運ばれてきて、建物に投石し、自動車を止めて 放火し、また建物にも放火して群集心理を破壊志向に導き、華人に対する差別的な言葉を 叫ぶ者が華人に対する襲撃を使嗾して地元の群衆を焚きつける形態で行われた。そのパタ ーンは暴動の中心地区になった場所で例外なく見られた。 地元の民衆を暴動に誘い出す手段は二種類が使われた。ひとつは地元民の間にどこそこで 暴動があり掠奪できるという噂を流させる方式で、電話をかけたり、公共乗合バスの運転 手にささやいたり、犯罪性向を持っていると見られる者に教えたりして群衆を誘い、計画 された暴動場所では道路上で木や古タイヤやあらゆる物を焼いて不穏な情勢を作り出すと 同時に地元の群衆に目的地を示すことがなされた。もうひとつはトラックで送られてきた 暴徒の指揮者がスラム地区に入って行って住民をけしかける方法だった。 現場に集まって来た地元の群衆が暴動態勢に入ると、暴徒の指揮者がアンチ華人を内容に する言葉を叫んで「チナを殺せ、店を焼け!」といった扇動を行ってから「あのビルを襲 え!」、「焼け!」といった指示を出し、暴徒はそれに従って行動した。行動が開始され たあとは指示統制などできるはずがなく、暴徒が暴れ始めたら指揮者は多分任務完了と判 断してそこから姿を消したことだろう。 暴動を現場で指揮した男たちの様子についての目撃者の証言が次のように報告された。高 校の制服を着た男たちが指揮を執った場所があった。しかしその顔は決して十代の人間の 顔でなかった。その反対に、使い古した普段着を着ている十代の若者たちが指揮した場所 もあった。かれらの顔つきはきわめて冷血そうだった。頭髪を兵隊刈りにし兵隊ブーツを 履いた、屈強な身体つきの男たちが指揮した場所もあったし、頑健な身体つきで身体に入 れ墨し、顔つきの獰猛な男たちが指揮した場所もあった。 5月暴動の実態を調査したさまざまな民間団体が合同で6月7日時点での被害者数を発表 した、それによれば、焼死者1,193人、銃撃による死者25人、行方不明32人、重 症63人、軽症18人となっていた。 この5月暴動で都内主要地区に配置された、どこから来たのかわからない群衆はランプン 州その他のいくつかの地方で集められた低階層民衆だったと語っている情報もある。 この暴動とはまた別の話として、オルバ期に行われたさまざまな民衆デモのほとんどは、 ジャワ島内の貧困地方からリクルートされた男たちがジャカルタへ運ばれ、ナシブンクス と飲用水で腹ごしらえをしてからデモ予定地に移動してデモを行った上に警察機動隊と対 戦し、そのあと夜に入ってその地区で暴れて暴動を起こして見せるという筋書きでなされ るものが普通だった。 オルバ期の民衆デモと呼ばれているものの多くは、一般のインドネシア国民が持っている 心情を直接反映するものでなかったということをそれが示している。デモのテーマが何で あれ、それとは無関係な政治対決における文字通りのデモンストレーションというのがそ の実相だったそうだ。[ 続く ]