「イブ(3)」(2025年09月11日)

インドネシアで暮らせばおのずと体験する現象のひとつに、高校を終えて数年したくらい
のまだ若い娘に「イブ」という呼びかけ言葉が使われるケースがある。冒頭に掲げたKB
BIの語義解説の中にもそれが示されている。

実は、インドネシア人の中にすらその現象に違和感を覚える者がいることをわたしは体験
した。そのような若い娘を呼ぶのに既婚者あるいは出産経験者を指すイブを使うのはおか
しいという意見なのである。

ところがわたしが観察したかぎりでは、そう呼ばれた若い娘たちの側に嫌がったり不快感
を見せたり、あるいは「失礼な・・・」という気持ちを抱いた様子が見られなかった。わ
たしの勝手な推察だが、かの女たちはおおむね、自分が大人扱いされていると感じている
のではないかという気がするのである。イブが社会生活の中で与えられている価値面での
位置付けがきっとそれだろう。


長い間インドネシアで暮らしているうちに、女性は母になることで自己実現に至るという
観念がインドネシア文化の持っている価値観の中に確固として存在しているのを感じるよ
うになった。悪く言うなら、深層意識の中に刷り込まれた強迫観念と言えなくもなさそう
だ。社会的価値観を構成している優劣・賢愚・善悪・正邪・貴賤・尊卑・美醜・巧拙・直
曲などといった基準が社会構成員の深層意識の中に刷り込まれて文化ビヘイビアの中身を
決めるのである。

たくさんの国でインテリ化の階段を上った女性たちが母になることを選択の問題にする方
向に傾いているような印象があるのに対比するなら、インドネシアの文化はその種の風潮
への追随が弱いというようにも見えるだろう。

古代にはどこの社会でもインドネシアのような価値観になっていたと思われるから、見方
によってはモダン化の遅速のようにも見られかねないが、視点を替えれば西洋文明化に半
身で構えているという解釈ができないわけでもない。

これは女性の、しかも各個人の問題でありながら、社会が抱く価値観がその構成員を支配
する形はユニバーサルなものであるため、社会の半分を埋めている男性にも関わる問題で
あると言えるにちがいあるまい。


女性が母になる、言い換えると出産するという行為は女性にしかできないことであり、生
理的に女性にしか与えられていない出産能力を行使しないということがらに対する賛否の
論は人類が歴史的に行ってきた女性解放運動の中でさまざまに語られている。

インドネシアに流れている基本的な通念によれば、女性も男性も結婚することではじめて
社会の一員になり、子供のいる家庭を運営してはじめて良き社会構成員になるというもの
ではないかとわたしは見ている。子供のいる家庭の温もりといない家庭の冷たさ(淋しさ)
という対比もあるし、中でも女性は幼児を育てることで家庭内での自分のポジションが輝
きを持つようになるという見返りすら存在している。

結婚という社会的な慣習制度は、その上に築かれる家庭の発端が正しいあり方で開始され、
社会がそれを承認し祝福したことを示すものではないかという認識をわたしはしている。
だから結婚でつながった一対の男女は常に周辺社会との調和を意識しながら生活すること
になる。それぞれの親を含む周辺社会が祝福しなかった結婚、あるいは同棲関係に社会が
圧力をかけることも昔は起こっていた。そういう集団社会の論理が個人社会に変貌するこ
とで、社会の自治機能も消滅して行ったと言えるかもしれない。

その昔、人気の高かった掲示板「よろずインドネシア」の投稿の中に、どこやらの銀行の
女性従業員の大半が大きなお腹をしているという話題があったのは、やはりインドネシア
の社会が持っている「女性の人間的完成=母になること」という観念(つまり社会常識)
に関わる現象だったのではないかという気がわたしにはするのである。

母系制社会でないにもかかわらず、インドネシアの多くの種族が母系制のような雰囲気を
漂わせている面を見る限り、制度とは無関係に心理的情緒的な女性尊重意識の強さが社会
通念の中に置かれていることをわれわれは感じ取ることになる。[ 続く ]