「イブ(5)」(2025年09月13日)

わたしはそんな家庭を持っている人間からその話を聞いたのだが、別の機会に他のバリ人
にその話を尋ねたところ、そんな慣習はないとそのバリ人は否定した。これが、人間とい
うものが作っている世の中というものであるようだ。世界は単一の真理真実で成り立って
はいないのである。確かにわたしが住んでいるバリ島の村の中で交際しているバリ人の中
にそんなことをしている家庭は見当たらない。

バリにはSing Beling Sing Ngantenという社会観念がいまだに残っていて、「孕まなけれ
ば結婚はない」という結婚観を持つ家庭も依然として存在しているとイ_ア語AIは述べて
いる。その一方でヒンドゥ教には、女性が妊娠する場合は決まった夫がいなければならな
いという規範があり、結婚前に妻が孕んだ子供を夫は否認できる、言い換えれば公認する
条件が成立しないということになっているらしい。

結局、性的に緩い社会観念と宗教規範の間でどちらに傾くかということに帰する問題のよ
うだ。だから人間が自我を固持して誇示する普通の社会では必ず個人差が出現して当然で
あり、人間が自我を隠して大同に就従する全体主義的な社会の人間がバリはああだこうだ
と言うようなことはきっとしない方が無難なのだろう。


インドネシア人はジェンダー差別意識の薄い民族であるというコメントをインターネット
内で見つけたこともある。確かに、日本では女性向けと男性向けの色やデザインという区
別が日常生活の中に存在しているようにわたしは感じているのだが、インドネシア人はそ
の種の区別が男女の間であまり強くないようにわたしの目に映っている。日本人の感覚で
言うと女性向けとしか思えない色やデザインの衣服や品物を男性が大人も子供も使ってい
る姿をわたしはインドネシアで普通に見かける。

その昔、コンパス紙に面白い写真が掲載されたことがある。ある地方で何日間も雨が降り
続いて洪水になったあと、水が引き始めたころに家の表で排水溝のゴミを除去している年
齢40歳代くらいのその家のご主人が被写体になっている写真だ。このご主人はなんと、
奥さんのワンピースを着てその仕事をしているのである。降り続く雨で洗濯ものが乾かな
かったのか、それともご主人の衣服がすべて洪水の犠牲になったのかはよくわからないも
のの、仕方なくそれを着なければならない事情になっていたのだろう。写真を撮られてい
るのを知りながら、その男性はむっつりとした顔で仕事に打ち込んでいた。

もっと昔の新聞記事には、雨が降り続いてパンツが乾かないから奥さんのパンティを借り
て履き、その上からズボンを履いて仕事にきた社員がいて、ズボンがびしょ濡れになった
にも関わらず脱いで乾かそうとしないために仲間に無理やり脱がされて大いに冷やかされ
たストーリーが語られていた。
そういう非趣味的な背景下に女装せざるを得なかった男性を見る世間の目は、多少の冷や
かし心はあって当然だろうが、あたかも人格異常者を見るような目になっていないように
わたしには思われたのである。それを人間に対する優しさと見ることもできようが、少な
くとも社会常識破りと異常な性観念の混じり合った不潔感という反応になっていないよう
に感じられた。

その頃の日本でそのような写真が新聞の紙面に載ることはまず起こらないだろうとわたし
は思った。いや、それは人権尊重意識の高低という問題でなくて、そんなことがらにイン
ドネシア社会が人権という問題を絡ませないように思えたからだ。社会にある文化上の価
値観が人権意識の質を左右するのである。

男性の女装が社会的な恥に区分される社会でその恥を暴くことは人権問題に関わって来る
だろうが、そんなことが社会の中で恥に位置付けられていなければそうならないだろう。

新聞に自分の女装写真が掲載されることを当の本人は承認しているはずであり、裁判沙汰
になればたいへんな慰謝料を取られる新聞社側がその対策を怠ることはありえないとわた
しは考える。本人がそれを承認したのは、それが日本のようなネガティブさを持っていな
いからという推測が最初に立つ。こういう異文化理解に触れると、日本文化のジェンダー
差別意識は決して低くないと思わずにはいられない。[ 続く ]