「印尼華人の受難(15)」(2025年09月15日)

サンティが最初に手掛けたのは、南タングラン市チプタッにある自動車ショールームの裏
に住んでいた、両親と娘一人の一家だった。この一家は「暴動の日に暴徒が地区一帯を襲
った時、なんとか逃れることができて他の住民に救われた。そして今は借家を世話しても
らって住んでいる」と本人たちが物語った。サンティはその話をそのまま信用した。

しかし数日後に両親の体調がおかしくなって、交替で病院に入った。サンティはその世話
をした。それが過ぎてまた数日後に母親から電話があり、娘が激しい出血をしていると知
らせてきた。サンティはその一家の家に急行して娘を最寄りの病院に連れて行ったが、そ
の病院は大病院の救急センターを紹介してサンティをそちらに行かせた。しかしサンティ
の努力は報われなかった。救急センターでその娘は生涯を閉じた。

それらのできごとから、サンティは既に覚っていた。暴徒から逃れることができたという
物語が作り話であったことを。両親は娘の身に起こった事実を他人に知らせることができ
ず、身体に異常が起こるほどのフラストレーションを抱えて毎日を送っていたのだ。


サンティはジャティヌガラ市場の住宅店舗の三階から路上に放り投げられた少女を担当し
たこともある。背骨を激しく損傷したその少女はベッドから起き上がることができない。
ジャティヌガラが暴徒に襲われたとき、チナの店を探していた何人もの暴徒が表のシャッ
ターと南京錠を破壊して店内に押し入り、商品を掠奪した。そのあと三階に逃げた父親と
少女を襲ったのだ。

少女の母は事件の前にもう離婚していた。そして父親が娘を守らなかったことを理由にし
て娘への援助を拒否した。寝たきりのその少女は知らない人間が来るといつも恐怖に襲わ
れた。ましてやそれが男であればパニックになった。

サンティの加わっているボランティア市民グループにオーストラリアから支援の申し入れ
があり、重度被害者の治療をオーストラリアで行うことが提案された。サンティの付き添
っている少女がその候補者にあがり、ジャカルタでふたりのオーストラリア人がその渡航
準備を行っているとき、かれらが宿泊しているホテルの部屋が荒らされる事件が起こった。
そればかりか、そのふたりの行動に尾行者が付いている気配すら感じられたのである。サ
ンティはそのとき5月暴動の政治性を嗅ぎ取った。

サンティは少女に付き添ってオーストラリアへ行った。ある日曜日、オーストラリア人ボ
ランティアがサンティを誘いに来た。オーストラリアに避難してきた若いインドネシア人
女性に会いに行こうと言う。出発に手間取って、目的の家に着いたのは数時間後だった。
そしてかれらは、ガレージで首を吊ったインドネシア人の娘と対面したのである。

別のとき、米国籍の元インドネシア人がサンティにコンタクトして来た。
「レープ被害者のひとりを米国に連れて行って治療したい。生活は保証する。」
サンティは警戒した。そしてかの女は重度の身体障害者になった男性被害者を紹介した。
その男は二度とコンタクトして来なかった。[ 続く ]