「イブ(終)」(2025年09月17日) インドネシアの外から持ち込まれたさまざまな宗教によってインドネシア社会は本来持っ ていた母権的社会の中に父権的な要素が混入されたと見ることができるだろう。父権的社 会に塗り替えられなかったのは、多分それがファンダメンタルなポジションに関わってい たためだろうという気がする。 新しいものが入って来たときに古いものを捨てて新来のものに飛びつくのは、それが表面 的であればあるほど容易であり、深層的であればあるほど摩擦が強まる。インドネシア伝 統文化の観念に従って女性をイブという言葉で代表させるとするなら、結局のところヌサ ンタラのひとびとはオーストロネシア文化が持っていたイブイズムを全面的に父権主義に 置き換えることをしなかった。かれらは取捨選択を行ったのだ。 インドネシアの外から持ち込まれたさまざまな宗教に全身全霊を捧げた人間がヌサンタラ にいなかったわけではもちろんないが、比率として眺めるなら草の根庶民階層の生活内の 価値観には上で見てきたように、明らかにイブイズムの影がはっきりと示されているよう に感じられる。 宗教が律している社会の中で非父権的要素がちらほらと目に付くためにその宗教の大本山 とは異なる社会文化的な雰囲気が感じられて、XX教徒だと言っているくせにニセモノくさ いという思いを抱く外部者が後を絶たず、それらの完全主義者は失望を味わっているよう に見える。しかし思い上がってはいけない。 インドネシアのひとびとが自分たちの生き方をどう決めるのかはかれら自身が選択する権 利と自由を持っているのであり、人間の自由と権利を声高らかに謳う完全主義者が大本山 のイメージを宗教信徒のあるべき姿と決めつける姿勢は自己矛盾を起こしているように見 えてしかたない。 宗教信徒はその宗教のドグマを完ぺきに受け入れて立ち居振る舞いから服装に至るまで大 本山民族の文化を自分のものにしなければならないと完全主義者が考えているのであれば、 その種の外見主義は本質論とまるで異なるスタンスで立っていることになる。 明治維新政府が伝統的に日本人の文化宗主国だった中国を見限ってその地位を西洋に与え たとき、その国家方針の中で外見主義も欧化政策の一部を埋めた。今でこそ日本人はその 政策を嘲っているようだが、宗教に関するかぎり現代人の中に相変わらず外見主義に憑り つかれて形式しか頭脳を通らない者がいるのはいったいどうしたことだろう。 自分の人生を物真似で飾り、それを社会に示して自分の誇りにしている者には永遠に本質 が見えてこないだろう。同じ宗教信徒が外見主義を奉じない信徒をそんな形で批判するの はまだ意見表明の自由として受け入れられるかもしれないものの、その宗教の信徒でない 人間がニセモノくさい宗教信徒を外見主義に基づいて批判する姿は、だれがどう見ても異 様としか思えない。 インドネシア人の宗教に対する姿勢がその宗教の大本山にある父権的なものと異なるよう になるのは、ファンダメンタルな位置でかれらがイブイズムを握りしめていることが影響 を与えるいるにちがいあるまい。母はあくまでも、そして永遠に強いのである。[ 完 ]