「女が母になる(2)」(2025年09月19日) 女も人間であるということを世間はよく忘れる。伝統の中で形成されたわれわれの集合深 層意識(男であれ女であれ)に従えば、人間とは男であり女は男に付き添う生き物であっ て、世間が定めた決まりに従う限り敬意が払われるべき存在なのである。 この集合深層意識はインドネシアにだけあるのでなく、西洋社会にも同じようにある。男 を示すa manは人間をも意味し、a womanとは子宮wombを持つ人間manだと言うのだ。そん な観念を見ても、女は常に妊娠と出産という特性に関連付けられていることがわかる。女 は妊娠と出産をすることによってのみ女と見なされるというのは真理なのだろうか? 母になるかならないかという選択は、いずれを選ぼうとも女性に負担をもたらすのが現実 だ。その選択は社会が定めている規範に合致しないときに誤りになる。妊娠状態を維持し ようとする女子生徒は学業の道を閉ざされてしまう。世間は妊娠した女子生徒を、社会規 範を破壊する者として拒否するのである。 あるいは、三人目以降の子供を出産するかどうかに関連して、働く妻に不利なことが起こ る。インドネシアの従業員規則は妊娠出産のための休暇と手当を第二子までしか与えない のだ。この決まりは世の中が女性に対して鉄の鎖で出産をコントロールしているように見 える。インドネシアの社会は、夫を持って子供をふたり産む女性を完ぺきな女性像として 描いている。子供はふたりだけ、それより多くても少なくてもいけない。 < 女=母ではない > 教育制度、労働分野、政治参加といった公的領域において、インドネシアは女性を男性と 同じレベルに活力化することがまだできていない実態をわれわれは人間開発指数(HDI)、 ジェンダー開発指数(GDI)、ジェンダーエンパワーメント指数(GEM)などの指標を通して知 っている。 そこに多くの努力が向けられた結果、家族というコンテキスト内での女性活力化は豊かさ を増した。家庭福祉プログラム・ダルマワニタ・家族計画運動・あるいは妻たちの集まり が作った組織などがその例だ。 それらの女性活力化努力の中で忘れられているものがひとつある。女性階層の中に妻でな い者や母でない者がいるという事実だ。それらのひとびとは往々にして、いないものとし て無視されたり、失敗者と見なされる。女性活力化コンセプトは家庭内セクターと政治セ クターの間で確定的な位置付けを持っていない。女性の家庭外活動に活力を持たせようと いう努力と裏腹に、家族という鉄の鎖が女性の足を縛り付けている。 自分の活動の焦点をぼやけさせているたくさんの女性運動推進者が世の中にいるのも無理 はない。かれらは次のような発言をしばしば行う。「男性を低く見るように女性に仕向け る運動がフェミニズムであるという考えは間違っている。フェミニストの多くは結婚して 子供を産んでいる。」 かれらの思考方法が「フェミニストが抱いている男性への尊重意識が家庭を持ち子供を産 むことで示される」という内容になっていることをその文が示している。だったら、家庭 を持とうとせず子供を産まない女はフェミニストでなく男性を尊重しない女性なのか? HDI・GDI・GEMなどの指標の向上がたいへん緩慢な現実を見る限り、女性活力化に関する われわれの思考パターンが二極に分裂していることがその一原因であるという推察は大い に可能だろう。[ 続く ]