「住民証明書(後)」(2025年09月20日) バタヴィアの町中には番所があって昼も夜も地元民が交替で詰めていた。警備当番は昼間 ふたり、夜は5人だった。番所に置かれている武器は刺股だけだったそうだ。武器を使っ て相手と格闘するような状況になれば、番人のひとりがすぐに警官を呼びに走ったことが 想像される。 夜中に路上を通行する者は番所に寄って証明書を示さなければならなかった。通行者は夜 中に刃物や鉄の棒などを持ち歩くことが禁止されていた。そんなものが所持品の中に見つ かれば証明書不携帯者と同じように監獄に連れて行かれたそうで、おかげでバタヴィアの 町中はたいへん安全な場所になっていたという話を1885年にバタヴィアへ遊びに行っ たソロの貴族が書き遺している。 バン ムサとンポ ヒンドゥンの夫婦はクウィタンに住んでいた。あるときバン ムサがク ブンシリの兄弟の家に遊びに行ったまま夜中になっても家に帰ってこない。ンポ ヒンド ゥンは心配で一睡もできずに夜明けを待った。家の中を調べたところ案の定、夫はKTPを 持たずに家を出たのだ。ンポ ヒンドゥンはKTPを持って警察所に急いだ。 警察所でKTPを示したので、バン ムサはその場で釈放された。妻の助け舟がなければ、バ ンムサは5日間拘留されることになっていたそうだ。オランダ時代のKTP不携帯の罪はけ っして軽くなかった。 1960年代ごろまでジャカルタは夜中でも安全な街であり、深夜にベチャに乗って遠距 離を走るようなことも平気で行われていた。盛り場へ行ってベチャで朝帰りするひとびと も少なくなかったそうだ。 オランダ人が設けたバタヴィアの路面電車は1963年まで運行していた。オランダ時代 には、電車の運行は19時ごろに終わり、夜中の街中は馬車やベチャの活躍する舞台にな った。プリブミに経済活動の機会を与えるためだったと書いている論説もある。 独立後もその習慣が継続されたのかもしれない。その理由が何であれ、夜の盛り場へ出か ければ、帰りは電車以外の交通機関を利用するしかなかったわけだ。そして馬車よりもベ チャのスピードのほうが断然速かった。ベチャは交通の途絶えた深夜の街中を風のように 走ったという話が語られている。 ベチャの由緒は日本の人力車であり、20世紀初めごろマカサルの日系自転車屋セイコさ んが人力車を改造して三輪自転車を作り、インドネシア人に紹介した、という新説がイ_ ア語ネットに登場している。1930年代末にマカサルからバタヴィアに持ち込まれて、 その後ジャカルタの街中を埋めるようになった。1943年1月20日付けジャワシンブ ンに、そんな内容の記事が掲載されているそうだ。 これまでの定説では、バタヴィアの三輪自転車は1930年代にイギリス植民地のシンガ ポールや香港からもたらされたものとされていて、ベチャという名称も馬車の福建語発音 に由来していると解説されている。 三輪自転車に馬車という名前を与えた福建人が本当にいたのかどうか、わたしはいまだに この説が腑に落ちないでいる。と言うのも、冗談から駒が出た話ならいざ知らず、普通の 人間の知性に照らしてその話を見れば、それが成立する確率ははなはだ薄いように思われ るからだ。 これはベチャッという非華語由来の言葉に福建人が反応して、「ベーチアとはこう書くの だ」と言いながら馬車という文字を書いて見せただけの話ではないのだろうか。シンガポ ールに行って道行く人々にベチャの画像を示し、「インドネシアではあなた方の先祖がこ の乗り物を馬車と名付けたと言われているが、事実だと思うか?」と尋ねてみればいい。 顔をしかめる者がどのくらいいるか、興味深いところだ。[ 完 ]