「タンジュンプリオッ(1)」(2025年09月21日) ジャカルタのTanjung Priokは旧バタヴィア城市から東方へ海岸伝いに進んで10キロ足 らずの距離にあり、アンチョル地区がその間に挟まれている。歴史の初期のころ、ヒンド ゥ教が広まりはじめた時代に既に、そこに港があったそうだ。岬を指すタンジュンという 言葉が示すように、船の寄港地になっていたのだろう。 現代の北ジャカルタ市タンジュンプリオッ郡はタンジュンプリオッ港を中心にするタンジ ュンプリオッ町というエリアと、少し南に下ったスンテル地区をカバーしている。タンジ ュンプリオッ郡の東に隣接しているのがKoja郡であり、コジャ郡は南にあるトゥグTugu地 区をも含んでいる。クロンチョン音楽で有名なあのトゥグだ。 コジャという言葉はインド人ムスリムを指している。本来はKhojaと綴られたようだが、 インドネシア語ではKojaとなる。グジャラート・マハラシュトラ・ラジャスタン・ハイデ ラバード地方一帯に住んでいるひとびとがコジャ人であり、古い時代にかれらは主に綿布 をヌサンタラに持ち込んで交易し、中には住み着く者が出た。華人やアラブ人と同じよう な行動をインド人も行ったということだろう。 現代地理に従えば、コジャ人と呼ばれるひとびとはパキスタンとインドにまたがる地域に 住んでいる。そのために呼び方に難しさがあるものの、インドネシアではパキスタン系と 認識する方向に傾いているようだ。ともあれ、過去の歴史の中でその地方はイギリス領イ ンドに含まれていたためにインドの一部という理解がなされてきた。 オランダ人がバタヴィアを作ったとき、城市外西側をコジャ人の居住地区にしてPekojan と呼んだ。城市外東側にはバンダ人奴隷を住まわせたのでKampung Bandanという地名がで きた。このBandanは多分Banda-anが圧縮されたものではないかと思われる。pe-koja-an. pe-cina-an, banda-anなどが軒並みpekojan, pecinan, bandanになっている。 だからジャカルタについて言うなら、コジャ人はバタヴィア城市西側とタンジュンプリオ ッ東側にコミュニティを作ったということになる。もちろん同じ時期ではないだろう。バ タヴィア城市西側にいたコジャ人は地元民との同化を進めて、オランダ植民地時代すでに そのエリアからあちこちの場所に移り、グロドッのプチナンにいた華人がプコジャンの土 地を買い取ってプチナンを広げていったという話が語られている。 そうして見ると、北ジャカルタのコジャにできたコジャ人コミュニティは長らくその純血 性を保ったように見えなくもないのだが、その辺りの話については情報がないのでよくわ からない。その地方にコジャ人はいつごろから住み着くようになり、いつごろまでインド =パキスタン文化のコミュニティが維持継続されていたのだろうか? オランダ時代にタンジュンプリオッ港建設プロジェクトを実施するに当たってインド人労 働力を大量に招聘したのがコジャ地区の発端だという論がイ_ア語ネット内に見られるも のの、これは顔を洗わなければならない話だろうという気がする。19世紀末にインド= パキスタンを統治していたイギリス政庁がそんなことを許すとは考えにくい。 そのストーリーに従うなら、コジャという地名はタンジュンプリオッ港ができてから付け られたものということになるはずだ。それ以前にまさか地名がなかったわけでもあるまい。 コジャという土地を解説しているイ_ア語情報の中に、コジャの昔の地名というものはま ったく見つからない。 コジャという地名の語源に別説があり、コジャとは樹種の名称であってコジャの森が美し い姿を見せていたことから命名されたとその説は語っている。わたし個人はむしろこちら の説になびいている。というのも、オランダ植民地時代に寂れた土地だったタンジュンプ リオッは19世紀末に最新鋭の外港が作られてはじめて経済的な伸び上がりを示すように なったのであり、港ができる前に異国からやってきたコジャ人がそんな土地にコミュニテ ィを設けてどんなメリットがあるのかを考えれば、地名のコジャはコジャ人にちなんだも のではなさそうだという推測がおのずと浮かんでくるのである。[ 続く ]