「タンジュンプリオッ(2)」(2025年09月22日) コジャの東側に隣接しているのがCilincing郡であり、チリンチン町〜マルンダ町が東に 向かって並んでいる。わたしが1970年代にジャカルタ初心者になったころは、タンジ ュンプリオッ港すらはるか北の果てという印象を抱いていたから、そのもっと向こうのチ リンチンやマルンダに至っては地球の果てではないかという気がしていた。しかしいざ行 ってみればそれほどの辺地でもないことがわかった。実見聞がいかに重要であるかという ことをわたしは学んだ。 オランダ東インドを征服するためにジャワ島に進攻したイギリス東インド会社軍が181 1年8月4日に上陸したのがそのチリンチン海岸だ。詳しく言うならブレンチョン川の河 口だった。総兵力は1万1千人または1万2千人で、43隻の軍船隊に護衛された57隻 の大型輸送船をメインにする大船隊の先陣がチリンチンの海に到着したのが7月30日だ ったらしい。騎馬兵団のために5百頭の馬も連れて来られた。その戦闘部隊の上陸に5日 間が費やされたのだろう。そのとき上陸の行われた地点は海岸浸食によって海の下に沈ん でしまった。 その海の、陸地からかなり離れた海上に一本の鉄製の長い棒が建っていて、棒の頂点には 灯油ランプが載っている。この軍事用灯台が今に残されたイギリス東インド会社軍の置き 土産だそうだ。上陸部隊は昼夜を分かたずに続々とチリンチン海岸に上がって布陣したに ちがいあるまい。灯台が立てられた場所はその当時陸地だったから、2百年間の浸食がい かに激しいものだったかがそこから判る。 VOC時代から、チリンチン海岸は決して無人の土地でなかった。ユスティヌス・フィン クが地主になり、1740年に大邸宅であるランドハウスを建てて地元民を支配していた。 その建物は今でも定年退職した警察官が使用しており、rumah veteran(退役者ハウス) と呼ばれている。 もうひとつの大邸宅、1750年に建てられたフレデステインランドハウスがあったのだ が、この建物は跡形もなく消え失せた。それを建てたのはジャワ北岸地区知事だったニコ ラス・ハルティングスだ。 イギリス軍のジャワ島進攻は前々から予測されていたから、フランス=オランダ軍がチリ ンチンを無防備にしていたとは思えない。ところがイギリス軍はチリンチンに無血上陸し ているのである。小規模な守備隊しか置かれていなかったのであれば、1万人を超える軍 勢に向けて発砲するのは確かに自殺行為になるだろう。それともこれは、その時期のオラ ンダ人が反ナポレオン親イギリス意識の強かったことを示す一例だったのだろうか? 19世紀終わりごろから20世紀にかけて、オランダ人の間ではBadplaats Tjilintjing Bij Bataviaという呼び方が一般的だった。チリンチンは海水浴場の代名詞になっていた のである。当時の写真や動画を見ると、大勢の西洋人老若男女が海遊びを楽しんでいる光 景を目にすることができる。水と戯れ、砂浜に寝そべって雑誌を読み、日光浴をし、冷た い飲み物やかき氷を食べている姿がそこにある。販売者はもちろん地元のプリブミだ。小 舟に乗っているヨーロッパ系プラナカン娘と西洋人のカップルもいる。当時の行楽目的先 であるチリンチンの海岸線は全長が4〜5キロもあった。 ジャカルタ郷土史専門家のチャンドリアン・アタヒヤッは、チリンチン海岸がいつごろか ら行楽地になったのかはよくわからないが、1905年にバタヴィア市評議会が市街の辺 縁部に関心を向けるようになってから黄金時代がやってきた、と語っている。チリンチン を目指すバタヴィア在住の白人たちは自動車に乗ってやってきた。 作家プラムディヤ・アナンタ・トゥルは1957年の作品「ジャカルタの物語」という短 編集の中に、「下男と下女‐長い長い家族の歴史」と題する一編を掲載した。イナという 名の女中がトアン ブランダから青い目の子供を授けてもらいたいと望んだ。チリンチン 海岸へピクニックに行くのはエリートの振舞いなのだ。そのころ、オランダ人一家はチリ ンチンへ海遊びに行くのを好んでいた。 「あたしはトアンのニャイになりたい。ニャイになって青い目の子供を産むんだ。その子 がオランダ人になるかもしれないじゃないか。そしたらあたしの人生はとても楽しいもの になる。あたしは女中を持つ身分になれる。あっ、女中だとトアンを奪うかもしれないね。 じゃあ下男でいいわ。あたしは自動車に乗ってチリンチンへピクニックに行くのよ。」 [ 続く ]