「タンジュンプリオッ(4)」(2025年09月24日)

今、チリンチンの海辺にはシリンダー状の護岸ブロックが並び、その間にできた水路を漁
船が行き交っている。50年くらい前まで、その一帯は陸地だったのだ。1940年生ま
れの地元民ユスフ・アミンさんは物語る。
「1950年代はまだアンチョルドリームランドができていなかったから、都民のレクレ
ーション先はチリンチン海岸が筆頭になっていました。海水もきれいだったからみんな海
水浴をして遊び、地元民が売るガドガドやエスチェンドルを食べていました。
チリンチン海岸の名はジャカルタの外にまで知られ、バンドゥンやタシッマラヤからグル
ープツアーが来ていましたよ。外国人の姿を見たこともありました。」

自動車に乗ってやってきた行楽客は今ス~ガイランダッ通りとレクレアシ通りの交差点に
なっている場所に設けられた駐車場に車を停め、そこから2キロも離れた海岸へ徒歩で向
かった。自然のままの木々や遠望されるヤシの木を眺めながら開けた海沿いの空間を歩く
楽しみをも行楽客はエンジョイしていた。

海岸付近にはバンデン魚の養殖池がたくさんあった。それらの養殖池はウイ・ボッヒムと
ウイ・ペッサンフーという二人の地主の所有地だった。そのふたりは中国語がまったく話
せなかったそうだ。釣りを趣味にするひとたちがそこで時間を過ごしていた。料理すると
油が出て来るという特徴がチリンチンのバンデン魚にあったので人気を呼んでいた。
地元の副隣組長をしているハシムさんは、チリンチン海岸の黄金時代に浜辺でガドガドを
販売していた話を物語った。毎週日曜日になると、かれは家で作ったガドガドを海岸まで
担いで行って行楽客に販売した。
「行楽客はピクニックにやってきて、タイヤの浮袋を借りて海に入ったり、中には自転車
ボートを借りて沖に出ていく人もいました。」

その当時、チリンチン海岸は護岸ブロックの列の数十メートル向こうまで浜辺だった。そ
れが今では、護岸ブロックの内側まで海になり、漁船が行き交っている。ハシムの話では、
1960年代末まで行楽地の名残は続いていたそうだ。しかし海岸浸食に蝕まれて行楽ス
ポットの火がおぼろになり、そのとどめを刺すかのように、地元民から外部者までもが浜
の砂を掬い取り始めた。何百艘もの小舟が砂を積み出しにやってきた。

そのころから、都庁は都内周辺部に大型道路を建設するプロジェクトを進め始めた。大量
の砂が消費され、1973〜74年にはチリンチン海岸の砂も大量に運び去られた。天然
樹や家屋が倒壊するに及んで、都庁はやっとチリンチンでの砂の採取を禁止した。


cacing(ワーム)通りを愛称にするチャクン=チリンチン道路が建設されたのは1990
年代だったから、もうチリンチンの砂は底を衝いていたのではあるまいか。この道路はプ
ロガドゥンやブカシ県の諸工業団地とタンジュンプリオッ港を結ぶ交通の便を向上させる
ための建設プロジェクトだった。高架のプリオッ港自動車専用道が作られるはるか以前の
ことだ。

昔あった狭くて穴だらけの道路がそれまで、チリンチン南部地区にたくさんの海運会社が
設けたコンテナデポと工業団地をつないでいた。貨物を下ろした輸入コンテナを返却し、
あるいは輸出貨物を積み込むために空コンテナを借り受けに行く場所が海運会社のコンテ
ナデポだ。コンテナデポを出入りするのが空コンテナであるとは言え、巨大なコンテナト
レーラーが走れば未舗装の道路は大穴だらけになる。

チャチン道路の北端は海の手前で港に向かう道路に接続したから、この道路を通れば工業
団地入居企業の輸出入活動の交通の便ははるかに向上するというのがチャチン道路プロジ
ェクトの狙いだったのである。都内を通って港に往復するコンテナトラックを減らして交
通渋滞を緩和させるというのが行政側のターゲットだった。当初は1996年10月に開
通というスケジュールだったが、全線開通は遅れに遅れたようにわたしは記憶している。
[ 続く ]