「タンジュンプリオッ(5)」(2025年09月25日)

1970年代に入るころまで、チリンチンは都内で有力な行楽地として経済的にも栄える
地区になっていた。そのころはアンチョルドリームランドがまだ建設されはじめたばかり
で、カジノやハイアライなどの賭博施設、ドライブインシアターやモーテルそしてビナリ
アビーチの立ちんぼうなどがあり、またゴーカートサーキットなども設けられ、それらが
メインの施設になっていたから健全な家族連れの海岸行楽地という趣の比較的薄い場所に
なっていた。そのせいで海遊びはオランダ時代に確立されたチリンチンが依然として人気
の高い目的地になっていたのだ。

そのころのチリンチン海岸は、砂の上を這ってから斜めに伸び上がったヤシの木が延々と
海岸線に並び、大量に採れるココナツの中の突然変異種であるkopyorが地元名物になって
いて、炎天下にコピヨルを使った冷たい飲み物を楽しみながら海遊びをするひとびとであ
ふれた。日本ではタガログ語のマカプノの知名度のほうが高いようだが、同じものをイン
ドネシア人はコピヨルと呼んでいる。


行楽地が崩壊したことで、経済力も地に落ちた。チリンチンには火曜市があったそうだが、
モダン小売店舗との競争に敗れて閉鎖された。地域が貧困化して行くと、富裕者がそこか
ら脱出し、外部から貧困者が入り込んできて空いたスペースを埋める。貧困化したチリン
チン海岸にやってきて住み着いたのはインドラマユをメインにする他地方の漁民たちだっ
た。

かれらは漁に出て獲得した漁果のゴミを海岸に捨てる。海岸沿いに住んでいた貧困者たち
もゴミを海岸に捨てる。貧困者たちには生活ゴミの処理方法にまで気が回らないだけでな
く、たとえ理解していたとしてもそんなことを行う資金も技術も、そして精神的な余裕す
ら不足している。チリンチンはスラム居住地区へと転落して行った。

チリンチン海岸の黄金時代の姿をわたしは知らない。わたしが初めてチリンチンを訪れた
のは20世紀の終わりごろで、ジャカルタで没したとある日本人先輩の火葬に出席するた
めだった。インドネシア人の奥さんがクリスチャンだったことから、キリスト教徒の葬儀
という雰囲気が濃かった。いまだに印象に残っている、そのとき聞いた話のひとつに、遺
体の焼却にガスと薪の選択肢があり、薪は廉価だが何日もかかるというものがあった。多
分、もうそんな選択肢はなくなっているだろう。

火葬場は海の際にあって、そこから海岸線を見渡してみたものの魅力のある浜辺という印
象はかけらもなかった。砂浜はなくて泥と土ばかりが目に映り、かつてそこが行楽地だっ
たという話を信じることはとてもできなかった。


さて、それでは本題のタンジュンプリオッに向かうことにしよう。タンジュンプリオッと
いう地名の由来もいくつか説がある。プリオッとは粘土を焼いて作った大鍋priukを指し
ていて、古い昔から商品として売買されていた品物だ。タンジュンプリオッ地方がその産
地のひとつだったので、その名が付けられたという説がまずひとつ。

別の説は、1756年にイスラム布教を目指してジャワ島にやってきたハビブ・アリ・ア
ルハダッ、通称Mbah Priokに関連付けられたものだ。聖人とされているかれの墓所をタン
ジュンの樹が覆っていたことを地名の由来と説くこの論に対して、何人かのジャカルタ郷
土史専門家が否定の声を上げている。ンバッ プリオッがこの地にやってくる前からタン
ジュンプリオッという地名が既に存在していたことがかれらの主張する根拠だ。

イ_ア語インターネットAIによれば、バタヴィアに大型の最新鋭港を作ることを急務に感
じたオランダ東インド政庁が新港建設場所としてタンジュンプリオッを指定したとき、タ
ンジュンプリオッ地方は住民のあまりいない、空地の多い湿地帯で、住民は農業や漁業を
営んでいたそうだ。[ 続く ]