「アンバラワ鉄道ループ(終)」(2025年09月25日) アンバラワに鉄道が敷かれたのは軍事用途が最大の理由だったとアンバラワ鉄道博物館の 保存展示課長は語った。アンバラワ駅はオランダ東インド植民地軍兵士の移動のための交 通基地であり、ブドノ、トゥンタン、スチャンなどに設けられた防衛監視ポストに警備兵 を送る足になっていた。それに加えて、南西の丘陵地帯にある農園で産するコーヒーをは じめとする農業生産物を輸送するためのインフラ機能も果たしていた。ジャンブやブドノ 一帯は18世紀から中部ジャワで有数のコーヒー生産地になっていたのだ。 ジャワ島に鉄道が敷かれる前、各地の農園で生産されたコーヒーを積出港のスマランまで 送るのに、牛や水牛が引く荷車が使われていた。整備された街道があればまだ良かったが、 道路整備が行われたのは要所だけであり、農園から街道までの道路については哀しむべき 状態にあったのがほとんどだ。川があれば水運を利用するほうがはるかに輸送効率が高ま った。しかしトゥロモヨ山からスマランに向かう水流はなかったようだ。 1902年にマグラン〜スチャンの線路敷設工事が行われたとき、列車の走行しやすい平 坦面を極力増やすという難題が立ちはだかり、丘陵を切り崩す大工事になった。そのため に3千人の作業者が動員され、39万フルデンの経費が支払われた。 更にスチャン〜アンバラワ間の工事が続けられ、ブドノ〜ジャンブ間が鉄道運行の最大の 難所になってラック式レールの敷設を余儀なくされた。なにしろブドノ駅は丘の最高所に あって標高711メートル、丘の下まで降りたジャンブ駅は標高479メートルという位 置関係になっている。両駅の距離は5キロメートル離れているだけなのだ。ちなみに、ア ンバラワ駅の標高は474メートルだ。 2004年に書かれたマウンテンロコツアーの体験記がある。体験記の筆者は前日からア ンバラワに到着して、当日早朝から運行準備の様子を見守った。機関車運転手と助手はな んと、早朝のスブの時間から出発の準備を開始したのだ。タンクに水を満たし、燃料の薪 を火にくべ、蒸気を定められた圧力にまで高めなければならない。出発はせいぜい10時 ごろだろうというのに。 当時53歳の機関士ルウィヨノはロコの運転を現役の先輩たちから習った。蒸気機関車全 盛の時代に、インドネシア国鉄の中にインドネシア語の蒸気機関車運転教本はひとつも存 在しなかった。ロコが衰退した今、運転マニュアルを作ろうとする者などいないから、蒸 気機関車運転は相変わらず希少な技能ということになる。 スマランのとある高校の1974年卒業生同窓会がマウンテンロコツアーのプログラムを 組んで二組の列車をチャーターした。B2502とB2503がそれぞれ二両の客車を引いてアン バラワ〜ブドノ間およそ10キロを往復する旅を楽しもうという企画がその日実行される のである。 ツアー客はおよそ百人。チャーター観光ツアーをしようというのに、ぎゅうぎゅう詰めの 客車に座りたいと思う者はいないだろう。1セット220万ルピアでそのチャーターがで きるのだから。 話しでは、蒸気鉄道に乗るのが大好きなベルギー人ツーリストがマウンテンロコツアーの お得意さんだそうだが、また別の日には学校の生徒たちが4台のバスを連ねてアンバラワ にやってきて、蒸気鉄道の旅をエンジョイしている。 乗客が全員客車に乗り込んだのを確認した車掌が機関士に合図を送ると、機関士助手が紐 を引いて汽笛を鳴らした。列車がゆっくりと動き出す。時速およそ25キロで列車は緑の 中を走る。そのうちに山岳地帯のパノラマが展望されるようになり、畑を過ぎて村に入り、 村を出てから森林に入る。そびえる山を遠景に従えた渓谷の展望が開けて、乗客の目は開 かれっぱなしだ。 ジャンブ駅で機関車が位置を変え、客車を押しながらラック式レールを登って行く体験は、 このツアーがなければできないものだ。ブドノ駅に到着すると、用意された昼食を客たち は賞味した。エスダウェッ、ナシプチュル、エビのルンぺイェ、米で作ったクルプッグン ダル、揚げテンペ、タニシのサテ、そしてスラビ。 ブドノ駅でおよそ1時間休憩した後、列車はアンバラワに向けて帰路をたどった。[ 完 ]